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地味で野暮で愛おしい、12年目の電気ケトル

 結婚して12年、ずっとおしゃれな電気ケトルを探している。

 毎日お湯を沸かしているのは、象印の電気ケトルだ。裏を見ると、「2008年製」とある。夫が、まだひとり暮らしの頃に二次会の景品でもらってきたもので、一緒に暮らしだしたときにはすでに、この電気ケトルがあった。

 白いボディに、薄いグレーの取っ手。つるんと丸っこいかたちは、エッジがきいたシャープなデザインとは真逆で、少々野暮ったく、なにより場所をとる。もちろん、コーヒーのドリップがしやすい注ぎ口ではなく、温度調整や蒸気レスといった気の利いた機能もない。少し癖のある開閉ボタンは使いづらく、蓋があいたまま沸かしてしまったことも一度や二度ではない。

 だから新婚当初から、わたしはこの電気ケトルがすごく不満だった。そもそも、電気ケトルはスマートじゃない。お湯はやかんで沸かしたいし、どうせなら、北欧でおにぎり食堂を営む小林聡美が使っていたものだとか、湯垢を育ててまろやかな白湯を楽しむ鉄瓶だとか、そういうのを使うのが「素敵な暮らし」だと信じていた。100歩譲って電気ケトルを使うにしたって、世の中にはもっとしゃれたデザインのものがあるじゃないか。友達が遊びに来るたびに、ときおり取材のスタッフがキッチンをのぞくたびに、わたしは白いずんぐりとした電気ケトルを壁の端へ追いやったり、写真に入らないようそっと画角から外したりしていた。

 ちょうどその頃、国内外あらゆるメーカーから競うように、スタイリッシュな電気ケトルが出始めた。当時、インテリア誌の編集部にいたわたしは、次々に届く新商品の情報を見ながら、カタカナが連なるブランドのケトルに憧れを募らせ、「早く壊れたらいいのに」と、祈るように、呪いを込めるように、つぶやいていたのだった。

 それから何年たっただろうか。意地でも壊れない電気ケトルを疎ましく眺めながら、ある日ふと思い立って、念入りに磨きこんでみた。年月を経たプラスチックの白はすっかり黄ばんでいたけれど、それでもささやかながら輝きを取り戻した。つやつやの丸い姿でたたずむ様子は、わたしの大好物のたまごみたいにも見える。あれ?なんだか、かわいいんじゃないか? 野暮ったいと感じていたフォルムも、朴訥としていて案外悪くない。なにより、かごや木箱をたくさん置いたうちのキッチンによく似合っている。

 コーヒーをドリップするときは、両手で角度を調整し、お湯を細く注ぐ。ひと癖ある蓋の開閉ボタンのコツは、右手の親指がすっかり覚えた。そばで暮らして12年。時間によって色も変わり、劣化した電気ケトル。けれど、手がかかるぶんだけ、いつの間にか染み込んだ愛着もまた、時間が運んできてくれたらしい。

 今も、電気ケトルを探し続けている。

 でもそれは、「もし今、この子が壊れてしまったら、気に入るものが見つかるだろうか」という気持ちからだ。勝手なもので、最新のデザインを横目に、「もう少しのんびりしたのがあってもいいのに」なんて思うことすらある。

「どうか壊れないでいてください」。

 そう祈りながら、今日もわたしは象印の電気ケトルでお湯を沸かしている。

※この文章は、ライターの青山ゆみこさんの文章講座で提出した課題に、加筆修正を加えたものです。詳しくは以下のリンクを。


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