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「はい、どーも!ちゃんねる」の真実
「はい、どーも!ちゃんねる」の真実
ノンデリセクハラ中年オヤジが独自の観点で世相を斬る!
ご存知「はい、どーも!ちゃんねる」のお時間です。今回のテーマはね、これね!
「イクとはどこにいくのか!」
ガハハ、今日もやっちゃうよ~!!(イェーイ!! パフパフ🎶)
これは私と妻の中にだけ存在する架空のYouTuberである。私の大脳新皮質が消えたらこのキャラクターが宝誌和尚(ほうしわじょう)立像のように顕現する。この像を見ながら想像してほしい。
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私たちが世界だと思っている空間は皮膜に過ぎない。文明は宇宙規模で見れば地球上に薄く根を張るカビである。私もまた表面的に取り繕ってその都度変態しながら生きている。その実、中身は空である。しかし空の中は変容可能な物質で満たされ変幻自在。仏教における空(くう)の思想である。
私なりに現代訳すると「どうでもいい」の精神となる。そんな柔軟性が失われると執着や衝突が生まれる。どうでも良くないことなんて、本来そんなに多くないはずである。
釣りとインターネット(序)
X(旧Twitter)はすでに掃き溜めだと理解しつつ逃れられないのは、そこに釣り人のネットワークがあるからである。逆に言えば釣り人は掃き溜めにいることになる。掃き溜め=釣り人にならぬよう注意したい。
う~ん・・てか何でこんな話するのかというと、なんか、最近ぜんぜん釣り場(現実)でおもしろい人に出会えないんだよね~~。
“おもしろい”とは何を指すか。具体的には過去の投稿を参照していただきたい。(なお前回の幼少期編は除く。あれは正月暇で書いた記事だから。)
それはやべぇ奴に出会った体験であり、共有したい超常現象なのであるが、そういうことはだいたい昼に起こる。
夜、一番やべぇ奴は私である。私は小学生の頃から深夜徘徊が趣味であり、中学時代には同級生のヤンキーの中で独自の位置を確立していた。ちなみに非行率第2位の栃木の中の非行率第2位の中学だった。
日産工場の経済力を後ろ盾にして町が大量の税金を投入して作った巨大な公園が実家の近所にある。その中央には小高い丘があり、頂上には町のロゴマークを冠したオブジェが日時計の針のように立っていた。北海道にある「モエレ沼公園」の夏の景観に近い場所である。
両親が寝静まったのを確認し静かに家を抜け出した私は、祖父から受け継いだ木刀を持って夜の田舎道を駆け抜ける。だいたい23時頃であったか。家から例の公園に行く前に神社や寺を通り、妖気を身に纏って満点の星空を堪能するのが好きだった。そして公園に到着すると半狂乱になって山腹の急な傾斜の芝生でバレエを舞う。バレエといっても木刀で悪霊を薙ぎ払いながら踊る即興であり、風がテーマだった。時間にして15~30分程度であるがアップダウンの激しい場所なのでいい運動になる。そして熱った体を冷ますために上裸になり、湯気を立てつつ頂のその先へ・・町を象徴するオブジェによじ登り“この町で最も高い男”になるのだ。
公園なので当然ヤンキーも来る。その中に知り合いが混じっていたようで、ある日を境にさん付けで呼ばれるようになった。そして常に満たされない獣の比喩として「◯◯◯(町名)の半勃起」というあだ名を与えられた。その噂はヤンキーのネットワークで広がり、なぜか近隣中学にも認知されていた。
夜の話は腐るほどあるのでいずれまた書くかもしれない。
・・話が逸れたが、夜に私よりも常軌を逸した人間に出会う可能性は低い。それに、夜は対人より対物、他人より自己との対話が主となる。一方、昼は多くの生物が活動する時間であり“おもしろい人”の母体数も多いし大なり小なり他者との交流が生まれる。尚且つ娯楽に溢れるこの世の中で、釣れる保証もない自然環境での釣りという趣味に興じる人々の個性が強いのは間違いない。だから昼の釣り場は“おもしろい人”に出会い“おもしろいこと”が起こる絶好のスポットなのである。なのに最近出会いに恵まれない。週に3日以上釣りに行くにも関わらず。
理由は恐らく2つある。
①厳冬期は釣り人が少ない。そして個々の釣り人のコミュ力や環境意識、スキルが高い。
②私が管理釣り場のナイターや多摩川の決まった場所にしか行かない。
こう考えると冬は対人関係的に平和でいい季節に感じられる。
春はというと、期待と恐怖の入り混じる複雑な季節となるやもしれない。
多摩川、春の「マルタ」まつり
春になり桜が咲くと「マルタ釣り」の季節となる。マルタとは降海性のウグイに分類される魚でマルタウグイと呼ばれることが多い。多摩川では高度経済成長期の水質汚染により絶滅状態となり、後に茨城県のマルタを人工的に放流して今に至る。テレビで見たアラスカの鮭の遡上風景のように、マルタが多摩川を埋め尽くす光景が目に焼きついている。都市河川としては異様な状況であり気持ち悪いとさえ思った。しかし近年は遡上量が激減している。それに伴いマルタ釣りは場所取りゲームになりがちで、釣り人同士の不満も高まっているように感じる。“ゲーム”とはヒドイ表現であるが、マルタは近年好んで食べられてはいない。釣り人にとっては漁ではなくゲームとして釣る遊漁対象になっている。
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マルタ釣りは特殊である。基本的にはフライ(釣り針に鳥の羽などを巻いたもの)や魚に似せたルアーなどで釣る。
40cmを超える丸々と太った魚体が目の前に群れている。
しかも鮮やかな婚姻色に染まって視認しやすい。釣り人なら誰しも期待感が高まるはずである。しかし釣りをしてみるとルアーに全く興味を示さない。ウグイは肉食性のはずなのに・・。
だから初心者は「難しい」と感じるはずである。そして必ずファールフック(スレ掛かり)してしまう。針が口ではなくヒレや腹に引っかかってしまうことである。その理由は3つある。
①魚が多すぎて引っかかってしまう。
②魚の向きに対して水平ではなくクロスするようにルアーを投げている。
③あまりに釣れないのでわざとファールフックする。
ファールフックしている初心者らしき釣り人を観察していると、以上3つの要素が全部混ざっていると感じる。
私はこういう釣り方が苦手である。それは自分の釣りのイメージにフィットしないからだ。
餌やルアーを食わせないと釣りではないと思ってしまう。しかしマルタは餌でも釣れない。なぜなら産卵期になると食い気を失うからである。マルタは産卵のために海から遡上してきているわけだから、餌に興味のない集団しか川にいないというわけだ。だがイレギューラーで餌に反応する個体も存在する。そういうマルタを狙うのが中級者である。
なるべく魚体に引っ掛けないように注意しながら根気強くルアーを投げ続け、群れの中からようやく1匹を釣り上げる人もいる。ファールフックのような「引っ掛け釣り」ではないことに美学を感じるタイプである。
では上級者はどんな釣りをするか。
マルタ釣りをよく知る人は断言する。これは「引っ掛け釣り」だと。
一般的に“釣る”とは魚の口に針が掛かった状態をいう。魚が口を使う理由は主に食うためであるが、実は威嚇や掃除などにも用いられ、人間でいう手の役割を果たしている。そうした性質を利用して“口に引っ掛け釣り”するテクニックがある。
まず川の流れを味方にして、比較的軽量なルアーあるいはフライを魚の口元に送り込む。すると魚が呼吸する際に自然と吸い込んだり、そのまま口に当たったり、邪魔だと思って払いのけたりする。その時に針が口に掛かれば“釣った”ことになるという。
この事実を知った時、マルタ釣りはこの世界で最も狂った釣りだと感じた。しかも産卵のためにはるばる海から来た魚にやることである。しかし釣りとは総じてそういうことかもしれない。自然の交感とか綺麗事を並べつつサイコパスなのが釣り人である。私は私を否定しつつ釣りに”狂”じる。
でも、いや、やはり。マルタ釣りには異様な恐ろしさを感じる。特定の何者かを否定するわけではないのだが、どうしても共感できない。でも経験したい気持ちもある。
かつては「鮎の転がし釣り」のようにわざと魚を引っ掛けるための仕掛けで川を撫で、春のマルタ遡上の季節にだけ釣りを楽しむ人もいたらしい。まぁ娯楽が少なく、今よりも倫理観のハードルが低い時代がそうさせたのかもしれない。それが、口に掛けるという形だけ紳士的な振る舞いによって、さらに歪になると感じるのは私だけだろうか。
繰り返すがこれは問題定義ではなく、私の感情の吐露であり、自己矛盾なのである。
ともかく、平和な冬が過ぎると恐ろしい春がやってくる。
マルタだけではなく自然環境での様々な釣りが活発になる。ブラックバスの春爆(春に爆釣すること)や、渓流釣り解禁などで人々が釣り場に押し寄せる。
そういう時に必ず”おもしろいこと”が起きるはずである。願わくば大ごとにはなりたくないが、ブログのネタとして少しだけ期待している。
釣りとインターネット(破)
現実に刺激がないせいか、この冬は特にSNSが騒がしかった気がする。
2月の終わりに差し掛かる頃、村田基氏のある投稿が話題となった。なお、本人が実際に思ったことらしいが村田氏が直接アカウントを操作しているわけではない(?)らしい。村田氏はバス釣りブームを牽引し、釣りをエンタメにした釣り人であり、釣具店店主兼メーカーのプロである。私も90年代に彼に憧れ釣りにのめり込んでいった。
このコメントと共に投稿されたのはコンテナホテルの写真だった。
これに対して
「震災以来その有用性が認められている」とか「意外と快適に過ごせる」とかいう状況説明や感想と共に感情的な意見が飛び交い、いわゆる炎上をしたのだが、実は以前から村田氏の投稿に嫌悪感を示す釣り人がSNS上に散見されていた。というのも彼は細い糸や小さなルアーで釣りをすることに否定的なのである。それを業界の重鎮が言うべきではないとの指摘がある。ほかにも色々あるのだが、私は彼が大活躍した90年代前後と現代の価値観に大きなギャップがあり、双方受け入れ難い状態が問題を生み出していると感じる。感じるだけで何の感情も湧かない。内容に対して否定も共感もしないが、話はめちゃくちゃではない。はっきり言い切っているから結構好きだし隙あらばサイン欲しい。村田氏のことは個人ではなく時代として見た方が良いと思う。時代はあなたを否定しない。ただそこにある(あった)だけである。
さて、私は美術の専門家である。ここでは、炎上した例の投稿を“鑑賞”したいと思う。
美術鑑賞には直感と知識が重要である。わからなくても気になったことを後から調べて鑑賞に役に立てることができる。逆に予備知識が邪魔をして余計なバイアスがかかり穿った見方をしてしまうこともある。そこで重要なのが即物的に見る姿勢である。カウンセリングにも近い。
まず「ついにホテルもここまで落ちた」というコメントを分解してみよう。
「ついに」「ホテル」「も」「ここまで」「落ちた」となる。
今回争点となったのは「ホテル」「落ちた」であろう。しかしこれでは個人のホテル論の衝突になってしまう。そこで私は「ついに」「も」「ここまで」という、より私的な感覚に焦点をあてたい。そうすることでなぜこのような投稿が生まれたのかを検証できると考えている。
「ここまで」というのは村田氏個人の感覚なので私にはわからない。わかる人もいると思うが本当のことは本人しかわからない。共感できないことは否定するのではなく、わからないままにすれば良い。ちなみに私はホテルならどこでも嬉しい。ただ枕や空調が変わると眠れないしベッドバグや感染症が怖い。
「ついに」と「も」は、彼の積み重ねた経験や価値観から生まれたものであろう。この投稿の前には連日のロケか何かで休む暇なく東北に移動する旨が書かれている。時間的・地理的・企画の金銭的な都合上やむ無くその場所になったと推測される。バブルを経験した村田氏の目には昨今の日本経済や様々な質の低下が悲しく映っているのだろう。そこで出たのがこの言葉なのではないか。
村田氏は海外のモーテルや田舎のコンテナラブホなどは知っていても、コンテナが「ホテル」として活用され始めたことは知らなかった可能性がある。実は私も去年初めて知って驚いた。その時はチープな構造体を「ホテル」と名付けることで話題を呼び収益を上げるための経営戦略だと解釈して納得した。しかし往年の「ホテル」の印象が残る村田氏にとっては純粋な驚きだったのではないか。そしてホテルが落ちたのではなく、日本人がコンテナをホテルというまで落ちぶれたと本気で思ったのかもしれない。釣り人ならビジネスホテルや民宿などの安宿に泊まった経験があるはずである。それを否定するとは思えない。過去を生きている(かもしれない)村田氏の中でホテルとコンテナのイメージが結び付かなかっただけではないのか。
次に写真を見てみよう。
ホテルの質を言うのであれば内部を撮る可能性もある。しかし村田氏はコンテナが並ぶ空間の記録を行なっている。もちろん村田氏が撮った写真かどうかは不明であるが、コンテナに興味を示していることはわかる。
コンテナはコンテナである。いかに有効利用されようがコンテナには違いない。
ではコンテナにどのようなイメージを抱くか。貨物や仮設である。コンテナと「ホテル」にはギャップがあって当然ではないか。
以上のような理由によって、炎上する必要のないつぶやきだと私は判断した。
もしかしたらスタッフの当てがった宿の質が分相応ではないと思ったのかもしれない。だとしても私的な感想であるが故に反論することはできない。
こんなことを書くと、私が彼の側であると疑う人がいるだろう。
実は先日、似たようなことがあった。
多摩川の違法釣り堀と呼ばれる場所の管理者と顔見知りになった私は、SNS上でその場所のことを問われた。現状を伝える中で彼の病状などを書いたら「全く同情できない」というリプをもらった。管理者は全面的に悪いのだから病状などを理由に彼の肩を持つことはおかしいと言うような抗議だと受け取ったが、同情を誘ったつもりはない。私は違法釣り堀がどうなろうと知ったことではないのだ。ただ老人の身体の具合が心配だから様子を見に行く。そして願わくば、直接経緯を聞きたいと思っている。違法と呼ばれはじめた瞬間に何があったのか。その機微に興味がある。私は見ることが好きだからその場所がなくなる瞬間をよく見ていたいだけなのだ。
見るということは欲望である。私たちは自由に世界を見ているようで、実は小さな穴から好きなものを覗き見ているだけなのかもしれない。
一人一人が不自由な視野を持っている。しかし見ることはやめられない。
SNSはそんな欲望が渦巻き可視化される環境であるからこそ、物事を冷静に見ることが重要になる。
そのために「どうでもいい」の精神を取り入れてみてはいかがだろうか。
釣りとインターネット(急)
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この投稿にはミスがある。
言わずもがな「誤:基盤 正:基板」である。
もし漢字テストだったら間違えない。つまり単純な変換ミスに気づけなかっただけだった。
この投稿から数日後、全く関わりのないアカウントから「間違いではないでしょうか?」というコメントがきた。
冷静に見ればそれはただの指摘である。しかし私のネットリテラシーのディープラーニング(?)が導き出した感情は「怖い」だった。
そのことを雑談のついでに知人S氏に話すと、2年前の投稿に同様のコメントが来たという。びっくりしてそのアカウントを調べると、紹介文には「クソリプ野郎」「間違いを訂正できない人は信用しない」と書かれていた。
まさかと思ってX(旧Twitter)で「基盤」と検索し、変換ミスをしている複数の投稿のコメント欄を確認すると・・・同アカウントから同様のコメントがあるではないか!!!
この時、私の心は下校途中にイオンのフードコートでダベるJKになった。
ねぇー!? ガチやばいんだけど!!!
そしてまたS氏に連絡したが反応がない。JKなら即レスのはずである。妻子持ちで会社帰りの彼からしたらこんな連絡自体が迷惑だったのかもしれないと反省し、おじさんに戻ることにした。
しかし数分後に驚くべき返信が来た。それは調査結果であり彼の有能さを示していた。S氏は感情論ではなく、状況を正確に把握することに長けている。アニメキャラにいそうなタイプである。あるいはメンタルの弱さゆえの防御策なのかもしれない。萌え。
S氏が発見したのは「基板では?」を撲滅することを目的とするアカウントだった。
ネット用語で◯◯警察というのがある。コロナ時期のマスク警察やアイドルの脇毛警察などそのジャンルは多岐に及ぶ。意見する場合もあれば、ただ発見することを目的にしている場合もある。
Xには“基板警察”がいる。さらに、彼らがミスを指摘し続けることをクソリプや迷惑行為と見なして取り締まる“基盤警察警察”が存在しているということである。
私とS氏は権力を持たない一般人として、本件に対して感じることや考えることをやめた。そしてAI検索やニュース検索、論文検索に頼ることにした。
その結果として見つかったワードには「言語ナチ」や「正義中毒」というものがあった。
おもしろさとは
こうした経験も“おもしろい”といえる。これは現代の枕草子である。でも何かが足りない。
ネット上のいざこざは文字のやり取りが主なので、行動原理や結果が同じに見えてしまう。多様性に欠けるのである。
その点、釣り場で出会う人々には揺らぎがあっておもしろい。
わからないことを仕掛けてくる人がいる。理解できない物事が起こりうる。
無法地帯に行くほどの勇気はない。あくまで釣り場の話である。
おもしろくないことを敢えておもしろいと言っているわけではない。
自分の理の外側に出会うこと。わからないこと。
せめて趣味の世界ではこういうものに触れてみたい。
あ、まって。最後に一つ良いですか。
基板の変換ミスを伝えてくれたお礼に私も伝えたいのです。
「〜ではないでしょうか?」に?は不要です。