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用水路で釣りをした幼馴染。その家の晩餐。開高健、読みました。

ブログの語尾

今年もよろしくお願いいたします。
去年始めたこのブログは「です・ます調」にすると決めていましたが、あまりにも表現の幅が狭く書くのがストレスでした。手紙や礼儀を重んじる場合に使われるこの語尾は、自分を押し殺し主張を抑える魔法がかかっていることを実感しました。しかし語彙力のなさをコーティングする機能性も持ち合わせています。防風防水と内側からの透湿性を備えたゴアテックスのような万能性。それを切り裂いて一度自由に書いてみたくなりました。
個人の自由がやたらめったら叫ばれる世の中ですが、公共の場は「です・ます調」の制限下に置かれるべきだと思っています。しかし現代のブログは公的なのか私的なのか…まぁとにかくやってみますか。

渋谷、まんだらけ

本当に何もすべきことがない年末のある日、特に目的もなく町に出ることにした。新宿に行って防寒着を見ていると4時間経っていた。
「モンベル」には釣り人のために開発された服が何点かあるが、冬用ズボンがなかなか良かった。内側に厚着できる絶妙な余裕と動きやすさ。ポケット。カラビナ掛け。試着室で水辺の魚に触れるシーンを想像して屈伸を繰り返す。管理釣り場のように平坦な場所もあれば多摩川のようにテトラ帯から腕を伸ばすこともあるだろう。そんなことはすでにやりましたよと開発担当の声が聞こえてくるようだった。ただし新宿店にはちょうど良いサイズが見当たらない。店員に確認すると渋谷店に在庫があり取り置きしてくれることになった。そういうわけで久しぶりに渋谷まで来てしまった。
道玄坂の入り口にはB’zの大きなラッピングをした路面店があり女性ファンがうっとりしながら写真を撮っていた。そこはB’zが監修したイルミネーションを楽しめる予約制のイベントスペースだった。のちに新曲が「イルミネーション」であり紅白に出ることを知る。私は假屋崎省吾のような前衛イルミネーションを想像したが、単にバンド名の前で写真を撮るような寂しい空間だった。コップにわずかに残る茶に余った熱湯を注いで飲むような薄味のカネの匂いしかしなかった。私は昔好きだった「Liar!Liar!」という曲を思い出しながら年末の喧騒に紛れて歩いてゆく。

まっ黄色いシャツ着ちゃって 歌い出しそうな表情さらして
ダンナと仲良く腕組んで 道横切ってんのはオマエだろう
つっこんじゃんぞ アクセルべったり踏んで
大渋滞のせいじゃ無い こんなひどい頭痛
どこまでも 追いつめても むなしいだけ

これを最近まで支離滅裂な歌詞だと思っていた。だから好きだった。マーティー・フリードマンがこの曲をきっかけに日本語ロックを研究し始めたとかなんとか..
「変な歌詞でしょ?」ある日、B’zを知らない妻に見せると「遊ばれた男の子の歌詞じゃない?」とあっけなく読み解いた。それにしても冒頭の「まっ黄色いシャツ」から感じられる私怨や撃ち抜くようなギターサウンドは今でもたまに聴きたくなる。そこに嘘はなかった。
井の頭通りを登り「東急ハンズ(現:ハンズ)」のT字路に向かう。その場所に古くからあるモンベル渋谷店の入り口にはクライミング体験もできる岩壁の装飾があり、上から垂れるロープを頼りに1人孤高なマネキンが20年以上山頂に挑み続けている。ズボンを受け取り外に出ると「らしんばん」というフィギュアや同人誌を扱う店舗が見えた。それがこんな場所にあるとは。渋谷は変わった。いや生きていると捉えよう。変わっていくことを肯定的に捉えようではないか。

渋谷ハンズに隣接する「らしんばん」

学生時代、年末年始はコミケの新刊などを委託販売する秋葉原の同人ショップでアルバイトをしていた。当時はエロ表現の発展性や現代性を研究してやると息巻いていたし、それだけの豊かさがあった。やがてプロアマの境界が曖昧になり、流行をつかみ儲けに走る作家が増えると同時にその火はあっけなく消え、以降は同人ショップに来る機会が減った。「モンベル」に向かう途中に通り過ぎた「まんだらけ」もその一つである。しかし気がつくと入り口に立っていた。今日、特別な出会いがあるとすればここだろうという予感があった。
暗く長い階段を降って辿り着くアリの巣のようなまんだらけ渋谷店は、まだギリギリ若者の流行をリードしていた(かに見える)00年代の渋谷からうまい具合に隠されたオタクの居場所になっていた。まだまだオタクの肩身が狭かった時代である。通信販売が一般化される以前は店に行くしかないわけだが、秋葉原ではオタク狩りなどもあり、少し怯えながら店に向かったことを覚えている。その分店内はオアシスだった。そこはメディアであり慰安所であった。すぐ隣にある渋谷の東急ハンズはもう少し実用寄りだが、モノ作りをする者にとっては似たようなニュアンスがあった。amazonは2000年初頭から日本でサービスを開始したようだが、用途不明の金具などを安売りし始めるのは2010年代後半からである。ここにしかないものがハンズにあった。私にとっての渋谷の思い出はパルコの裏、井の頭通りの先端に集約されているかもしれない。

開高健の表現

地下2階へ向かう階段の踊り場に写真集から文庫まで雑多に並べられた棚がある。万引きされても仕方がないような場所だが立ち止まる人もいない。そこはただの通り道なのだ。照明は暗く、かと思えば時折ランプの強い発光があり居心地の良い場所ではない。
足早に階段を降りる途中、目の端に見慣れた「釣り」の文字が見えた気がして立ち止まる。これまで敢えて読まなかった開高健のエッセイに手が伸びた。『フィッシュ・オン』(文庫)が100円。といっても値段を見て買ったわけではない。むしろ50円くらいだと思っていた。その横にある『オーパ!』も捲ってみたが写真集に文章が紛れ込むような構成で本として読みにくいからやめた。写真ページのツルツルした紙の質感に時代を感じる。ネットがない時代、異国の釣行記を写真で見たいと思う読者が多かったのだろう。表紙には鋭い歯を覗かせるピラニアがこちらを睨みつけていた。

その日購入した本。多摩川「森林」組合は「マルタ」ウグイとかけているらしい。

これまで読む気になれなかったのは、開高健の釣りのスケールが自分にフィットしなかったせいである。世界中の怪魚を追い、肉体を酷使する。それは自己のテリトリーを外側に向ける行為であり、昭和の“ロマン”を強く感じさせる(気がした)。『釣りキチ三平』でもバショウカジキを釣る話よりフナや鮎を釣る話が好きだ。そこには人間臭さがあり、派手なクライマックスは無いものの内面に向かう複雑さの余韻がある。釣り人には外派と内派がいると感じる。私は断然後者であるが、釣りの魅力はその多様性にあるのだろう。そういえば文学も詩や私小説が好きだった。あとは国語の教科書に載っていた開高健の写真がなんとなくダサかったのも良くなかった。仮に細身の長髪、丸いサングラス姿の香港マフィアのような風貌であれば確実に読んでいたが、広告にも起用された彼の姿からは絵に描いたような昭和の男のロマンが香りまくっていた。しかし昭和にも様々なレイヤーがある。華やかな文化や豊かな経済の中に身を置くと人々は相反するものを欲する。デカダンスやペシミズム。内面や闇を見つめたくなるのである。それができる余裕こそ高度経済成長後の日本の豊かさであった。
『フィッシュ・オン』は世界中の釣行記である。目次はアラスカ、スウェーデン、アイスランド、西ドイツ、ナイジェリア、フランス、ギリシャ、エジプト、タイ、日本の順に並んでいる。「仕上げに一滴の光をそえるべく銀山湖へイワナをつりにいくこと。及び、そこで暮らしてみること」目次のこの一言が余計に感じたが、自分の趣味に合いそうな日本から読むことにした。福島県の銀山湖というダム湖で巨大イワナをルアーで狙う。まだ電気も来ていない小屋を夏の3ヶ月間借り、酒を舐め、釣りと原稿に没頭する。ワイルドだろぉ~?
そんなふうにかなり斜に構えて読み始めたが、想像以上に文体が自由で気取った様子は感じられなかった。そして心理描写と自然の情景を見事に文字として紡ぎだしている。好奇心という外に向かう力と深い感受性。これは人気になるはずである。想定外だったのは私小説のような内省とつげ義春のような闇の想像力が同居していることだった。
毎夜洪水のようにランプの灯りに吸い寄せられる昆虫をガラス一枚で隔てた空間に彼はいる。その堰を自ら切って部屋に羽虫を招き入れ、火に飛び込み焼ける様を眺めた記述がある。私は速水御舟の有名な日本画「炎舞」を思い描きながら虫の焼ける匂いや掃除の気だるさといった現実味をありありと感じた。また夜中に霊的な恐怖を覚えて戦慄する描写も見事だった。映像的であることはもちろんのこと、筆者自身の暗さがよぎるのである。

・・・
冷たい汗にまみれながら私はじりじりと左の目を薄くあけ、枕のうえで、全身の注意をこめてひそかに顔をまわしていき、部屋のなかをすみからすみまで眺めた。恐怖の芯がわかったとき、ふいに体がほどけ、吐息ば洩れた。一匹の小さなチョウが壁にかけた私のズボンにとまって静かに羽を閉じたり開いたりしているのだった。
・・・
『フィッシュ・オン』p.270(新潮社、1974年)

私は浅はかな読まず嫌いをしていた自分を恥じる間もなく彼に夢中になっていた。幼少期に釣りを経験した彼は文筆業に忙殺され、心身ともに病み、数十年ぶりに釣りを再開したようだった。実は私も似たような境遇にある。眠りが浅く夜明け前に目覚める日が続いたある時、急に思い立って多摩川に出かけた。あまりに手持ち無沙汰だから釣り人という役割を自分に与えたのである。結果的にはそれが良かった。なお当時妻から「私から逃げているの?」と疑われるほど釣りへの傾倒が異常に見えたらしい。そういえば出会ってから結婚するまで一切釣りをしなかった。

芥川賞を受賞した『裸の王様』(初出1957年、文藝春秋新社)は、彼が本格的に小説家としてデビューを果たすきっかけとなった短編小説である。これにも驚いた。小さな絵画教室を営む主人公が戦後成金の一人息子に絵を描かせる話なのだが、主人公の視点からは梶井基次郎のようなカラカラした暗さが染み出ている。そして宮沢賢治のような純粋さと感受性も内包している。つまりフィクションでありながらどこか私的なニュアンスがあり、そこに作家の個性が感じられる。その荒々しさを俯瞰し調律する物書きとしての圧倒的なセンスがあった。
戦後の闇と個をテーマにした小説を執筆しつつ世界中の魚を追い求め、また食通でもあった開高健は怪魚ならぬ怪人であり、昭和という時代が生み出した主要キャラクターの一人であった。それが私の感想である。ちなみに彼が実際に釣りをする映像をYoutubeで見たが、ルアーを投げるのも巻くのも小慣れていた。最近の釣り好き芸能人よりもよっぽど様になっている。しかし魚を掛けた後が絵にならないのは何故だろう。現地で借りた不慣れな道具だからか、今ほど竿の材質が良くないからか。あるいは数釣りをやらないからかもしれない。魚をいなすテクニックは魚を釣るほど上手くなるものだから。

正月という時間の中で

開高健を堪能できたのは実家に帰省して正月を謳歌したからである。日帰りする予定で来たから釣り道具は持ってこなかった。ところが2泊もすることになって文庫本とkindle unlimitedに頼りきりになってしまった。自転車で行ける距離に鬼怒川や良い管理釣り場が2つもあるというのに。それでもやっぱり未練があってふらふらと水辺に向かう。
近所にi川という農業用水路がある。帰省するたびにちょっと出かけてカワムツを釣っている。両脇は水田だったはずだが、いつの間に麦畑に変わっていた。継ぎ手はいるのだろうか。この辺の麦や米は飼料用のものが多い。人用でなければ幾分手間も省けるのだろうが、現状は私の親世代が兼業農家としてギリギリ稲作農地を保っている。私にとっては美しい風景でも同級生にとっては“お荷物”なのである。そんな畑が金色に染まる初夏、稲穂を撫でる風が奏でる乾いた音を聴くと涙が出てくる。重度のイネ花粉症だから。

i川と釣竿。背後の道路を挟んだ向こう側にも用水路が伸びている。
スピナーで釣れたカワムツ

カワムツがルアーで釣れると知ったのは最近のことである。きっかけはYoutubeだったかもしれない。知る限り小魚の中でもっとも攻撃的な在来肉食魚であるが、同時に非常に繊細で人影を見るや食い気を失くしてしまう。だから小さな川では上流を向いている彼らに対して下流からそっと近づいて釣るのだが、集団でルアーを追いかけてくるのでどうしても目が合ってしまう。そして一目散に逃げ出すやつの緊張が伝播してその一帯は釣れなくなってしまうのだ。不思議なことにカワムツは釣り人の姿がよく見えるような場所を好む。岩陰とか強い流れの中ではなく、比較的浅く流れのおがやかな場所にいる。隠れるよりも逃げる方が性に合っているのかもしれない。
そんなこととはつゆ知らず、小学生の頃はこの川で餌釣りに没頭していた。餌でもなかなか食いつかないのが悔しくて暗い時間まで粘っていた。川沿いの農家にはよく注意されたものである。今やその家も無人となり、川は明らかに荒れていた。町が設置した柵によってもう竿を出せない場所もあった。ちょうどそこが冬の水枯れの最上流になっていてナマズやフナが腹を見せている。もし柵がなければ網ですくう子がいたろうか。夢中になって落ちてしまうだろうか。いや、この川にくるほど子供はいないか。

干上がったi川に落ちていたオブジェ

幼馴染と川の思い出

この川に初めて来たのは父とだったか。その後は私が友達に釣りを教えながらこの川を遊び尽くした。小学校低学年の時は隣の家のS君とよく遊んでいた。食堂の息子でちょっと太っちょのガキ大将という感じの子である。i川で釣りをするのにミミズをとるのだが、当時の私は在庫不足に悩んでいた。すると、S君は当然のように言った。
「生ゴミを撒いておくと次の日うじゃうじゃしてるよ」
それは私にとって驚くべき情報だった。しかし生ゴミとは具体的にどのようなものであり、どうしたら母親の支配下から得られるのか見当もつかなかった。うちは共働きで買ってきた惣菜が食卓に出ることが多かった。また庭の小さな菜園から採れる野菜は不要な部分を庭に撒いてほとんど余す所なく食べてしまう。撒いたものは今思えば生ゴミなのだが、循環されるものだという理解が邪魔をして“ゴミ”だと思い至らなかった。その点、食堂で育ち、お兄さんもいるS君は英才教育を受けていた。
「もろみを使うと良いよ」
「もろみって何?」
「ザリガニのしっぽ」
「しっぽをどうやって餌にするの?」
当時はアメリカザリガニ7:日本ザリガニ3くらいの割合だったと思うが、とにかくザリガニはそこらじゅうに湧き出るほどにいた。S君は川に降りるとザリガニを素手でひょいと捕まえて私のいる土手に放り投げた。低い弾道ではなく高く投げて潰すようなやり方だった。落ちる瞬間私は目を覆った。思えばこの時からS君に“他者”を感じ始めたかもしれない。私は一人息子として過保護で幸福に育った自覚がある。大人になってからそれを恥じない日はないが、両親には感謝してもしきれない。世界の全てを信頼できること。皆が同じ価値観を共有しているということをこの日まで疑わなかった。
川から上がってきたS君は早速ザリガニを掴み、慣れた手つきでしっぽをむしり取った。ザリガニの顔が一瞬こわばってキュっと鳴いた気がする。その死に自分を投影して見ていた。殻の奥底から覗く鮮やかなオレンジ色。木偶のように揺れるハサミ。その頭のほう川に投げ捨て、痙攣するしっぽに爪をたててバリバリと躊躇なく剥いていく。そしてまた川に戻ってバシャバシャ洗うと回転寿司の海老のようなサイズの身が手の中に輝いていた。先ほどまでザリガニだったものが肉片になってしまった。それはよく知るものであり、もっとも遠いものにも感じられた。その繊維質の肉を小さくむしり取ると非常に針持ちの良い餌となった。そして実際よく釣れた。手も臭くならなかった。
S君とは違う人間だ。そう割り切れるほど分別がなかった子供時代の私は、自然消滅という形で徐々に別の友人と仲良くなっていく。その契機となったのがビー玉事件だった。
下校中にビー玉を拾って嬉しくなった私はそれを家まで持ち帰るつもりでいた。今思えば汚らしい。
「それ貸して」
こういうものに興味がなさそうなのに珍しいことを言うものだな。そう思って手渡すとS君は突然遠くの草むらに放り投げてしまった。私は何が起こったのか全くわからず唖然とした。“わからないこと”が初めてだった。泣くことも怒ることもできず「なんで?」と聞いた覚えがある。今思えばそういうことをお兄さんにされた経験があって真似をしたかったのだと思う。S君は私の質問に答えなかった。

最後の晩餐

晩餐、と言うと「焼き肉焼いても家焼くな」という現代ではあり得ない焼肉のタレのCMを思い出す。最近だとバイオハザード7(ゲーム)のベイカー一家の食卓シーンである。心身ともに謎のウィルスに支配された家族におぞましい料理を食わされそうになる主人公。あのシーンはゲーム史に残ると思う。その食卓の印象とどうしても重ねてしまうのが、S君の家に初めて招かれた時の夕食である。大変失礼ではあるがあくまで無知な子供時代の印象としてご理解いただきたい。
その日、なぜS君の家で夕食をご馳走になったのかはよく覚えていない。もしかしたらお互いにとって友達との初めてのお泊まり会だったのかもしれない。それでS君のお母さんが奮発してくれたのだろうか。家族が集合した食卓にはインクで染めたように真っ赤なエビが山盛りになって運ばれてきた。ロブスターをそっくりそのまま縮小したようなそれはザリガニだった。
私はザリガニが食べられるとは知らなかった。ギョッとしたが子供ながらにこの恐怖を素直に口にしてはいけないとわかった。家族は我先にと手を伸ばし、慣れた手つきで殻を剥いていた。

「わぁ、ザリガニ食べるの初めてだよ・・」

「・・」という複雑な心境も、そのニュアンスを表現したのも初めてだったかもしれない。
「i川で獲るんだよ。夜にライトを点けると小魚が寄ってくるんだ。内緒だよ!」
内緒なのは小魚を寄せる術であってザリガニ食のことではない。魚もそこで獲って食っているのだと思った。今思えば、その川ではよくドジョウが釣れたし海無し県の栃木や古河(茨城)ではコイ科の川魚を食う文化があるから別におかしいことではない。昔からの食文化を愉しむ地産地消の豊かな家庭である。ただ私が無知なだけだった。しかし恐怖に追い打ちをかけたのは飲み物だった。
S君家族にリレーされていくビールジョッキには生卵が2~3個入っていた。そこに醤油をかけて飲む。そのまま飲む人もいれば菜箸でかき混ぜてから飲む人もいた。ご両親のジョッキには焼酎も入っている。ガラスコップに箸が当たる音を初めて聞いた。
「◯◯君は何個?」
S君のお母さんに聞かれて行儀よく答えた。
「僕はダイジョウブです!喉乾いていません!ありがとうございます!」
うちのお母さんならこういう人を放っておかない。何か飲みたいはずだと勘繰って、無理矢理にでも与えて安心することを選ぶ。それが優しさだと信じている。だから私は次の質問を恐れた。しかしS君のお母さんはただ承知してザリガニに手を伸ばしテレビを見始めた。その家族は誰も私に関心がなかった。S君でさえテレビと食事に夢中になっていた。それがなんだか心地よくて、ザリガニに挑戦する勇気を与えてくれた。
「ザリガニは茹でると青になるやつがいて、そういうのは食べられないんだよね」
S君が得意げに教えてくれる。
食べられないってどういうことなのか。なぜ都合よく青くなるのか。皆目見当がつかないが、妙に納得して、一番赤いザリガニを丁寧に選び取った。
冷めている。生きたやつよりも軽い。
誰も剥き方や食べ方を教えてくれないから見よう見まねで可食部を取り出すと、身はとても小さく縮んでいた。先日川で剥いてくれた生のやつとは大違いである。しかしその小ささに救われた。私は矯正をした小さな歯の先端でカワムツの餌にするくらい小さな肉片をかじり取り、乾いた喉に送り込んだ。無味。皆なにか味付けをしていたが調味料が遠くにあるためそのまま食べるしかなかった。「醤油とって」なんて言ったら、もっと食べなければ失礼である。残った身は頭の殻で蓋をして隠して捨てた。
結果的にその食卓には何も手をつけられるものがなかった。箸や茶碗でさえも異質に感じられた。先天的な性格なのかその時のトラウマによるのかわからないが、成長の過程で私は他人の家庭の匂いや食器が苦手だということに気づいていく。

S君は釣りにハマらなかった。それは彼にとっての魚取りが漁であり、たった一本の糸を垂らすよりも効率的な方法を知っていたからかもしれない。

宇都宮のアルペン建築。以前は釣具の上州屋が入っていた。

私はS君を恐れつつ、どこか憧れていた。自分にない強さを全部持っている気がしたからだ。大学院時代に帰省するとS君はガレージで子供や同級生家族と一緒にBBQをしていた。現代文化批評界隈では「マイルドヤンキー」が話題になっていた頃である。それは概念化される以前から常に田舎で生活する私に付き纏っていた。それを振り払って東京に逃げ出し、学問と美学に救いを求めたことを思い出す。

S君に会ったら何を話せば良いのか。彼の実家は今も隣にある。

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