おはよーさん
ふとした一言から記憶がフラッシュバックしパンドラの箱が開く。そんな瞬間はないだろうか?言葉はいつだって魔法の鍵になる。たとえ、開けたくない箱でもいとも簡単に開いてしまう。
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「おはよーさん」
隣のテーブルに遅れてやってきた若い(といっても30歳くらいか)青年が20代前半とおぼしき3名のクリエイターの卵らしき若者に声をかけた。
「おはようございます」
「うぃーっす」
数枚のプリント資料、ラフが描かれたメモ書き、人数分のMacBookが所狭しと散乱している。話の様子からクリエイティブ関連の打ち合わせだろう。
ぼくはこの喫茶店で後輩(という名の仕事のパートナー)のちはるを待っている。季節はホットからアイスへとコーヒーの注文が切り替わる4月の上旬。昼間は暖かくなるが朝方はまだ寒い。ぼくも今シーズン初めてアイスコーヒーを頼んだ。少しだけかわいく目が大きいアルバイトの女の子は、ぼくの注文を確認するとカウンターに向かって「アイコ入りましたー」と笑顔でオーダーを通す。
微笑ましいその光景を眺めながら
ホットから
アイスに変わる
「・・・」
4月7日は
アイコ記念日
サラダ記念日っぽく考えてみたけど途中が思い浮かばなかった。やっぱりぼくはクリエイティブな才能を持ち合わせて無いらしい。
少しだけかわいい女の子が笑顔でアイスコーヒーを運んできた。胸についている名札に目をやると「TAKAYO」となっている。
TAKAYO、か。
TAKAYO、たかよ・・・。おはよーさん。
大学に通い出した20年ほど前の4月。新しくできた友人と夜まで遊び、1日の終着駅となる24時間営業のファミレスにやってきた。
時計は夜の21時を指している。ネクタイを外したサラリーマン、ぼくたちと同じような学生、近所のOLらしき30代前半の女性が思い思いにしゃべり、本を読み、ワインを傾けていた。
ぼくと車の持ち主であるカズはテーブルにあるボタンを押す。同い年くらいだろうか。少しだけかわいい若い女性がオーダーを取りに来た。その瞬間カズが言った。
「あれ?おまえ、貴代じゃない?俺、中学の時一緒だったカズ」
「あぁカズ!久しぶり。私、22時であがりだからちょっと待っててよ」
「あぁいいよ。とりあえずドリンクバーな。俺たちバイトもしてないビンボー学生だからな」
貴代はオーダーを打ちぼくらはドリンクを取りに席を立つ。選んだのはアイスコーヒーだった。
「タマ、あいつ貴代って言うんだけど同級生なんだよ。すげぇ久しぶり」
ぼくはタマガワだからタマと呼ばれていた。
「へぇ。」
そのとき、ぼくは何の感情も抱いていなかったことは間違いない。大学で新しくできた友人の同級生。ただ、それだけ、朝が訪れるまでは。
22時を15分過ぎたあたりで貴代はぼくらのテーブルへやってきた。ジーンズにTシャツそしてジップアップのパーカーを手に持っている。
少しの間だけど、お互いの自己紹介、近況など他愛もない18歳のおしゃべりを楽しんだ。ぼくの終電となる23時に近づいたときカズが言った。
「おまえら電車一緒だから駅まで送っていくよ」
「ありがとう。そろそろ行くか」
ぼくは答える。貴代はうなずく。
最寄り駅付近でカズに降ろしてもらいぼくと貴代は駅へ向かって歩き出す。風が吹くと少し寒い。
「タマ、夜はまだ寒いね。身体が暖かくなる方法知ってる?」
貴代は腕をぼくの腕を取り今にも唇が耳に触れそうな距離で囁くように言った。決して大きいとはいえないであろう胸が腕にあたる。
ぼくは答えない。いや、答えられなかった。
ニヤっと笑って貴代は続けた。
「ドライブ行かない?私、車買ったばっかりなんだよね。助手席乗せてあげるよ。初めて男を乗せるんだから感謝しろよ」
ぼくは無言でうなずく。
電車で2つとなりの貴代の最寄り駅。ぼくは貴代と一緒に腕を組み、車が置いてあるという駐車場へ向かって歩き出す。
車のことはさっぱりわからない。乗り込んで唯一、わかったのはオートマではなくてマニュアルということだけだ。貴代は慣れた手つきで車を発進させ少しずつミッションを上げていく。
「これさぁどこ向かってんの?」
ぼくが聞くと
「お台場。砂浜行きたくない?」
貴代は答える。
カーステレオからは「壊れるほど愛しても1/3も伝わらない」とバンドマンが叫んでいる。
1時間ほど走ったのだろうか。ぼくらは人気の無い、砂浜と呼べるかはわからないが、間違いなくお台場で肩を寄せ合い座っていた。レインボーブリッジらしき明かりが近くに見えたからそう判断しただけなんだけど。
何時間かしゃべっているだけで18歳のぼくは3時間前に少しだけかわいいと思っていた貴代が心からかわいく見えていた。でも、どこか怖くタイミングもわからない。このときのぼくは限りなく臆病だったんだ。
それを察したのか貴代は
「これ、私の携帯番号。030-○○××-おはよーさん」
「おはよーさん?」
「0843でおはよーさん。覚えやすいだろ?タマが踏ん切りついたら電話ちょうーだい。今日は帰ろ。送ってくよ」
「ありがとう」
ぼくらは腕を組むことなく車に向かって歩き出す。1時間ほど車を走らせ渋谷から歩いて30分ほどにあるぼくの家へついた。ついたといっても向かい側の車線だ。家までは少し歩く。
「タマ、チャンスは逃すなよ!女心はすぐ変わるからな!」
ぼくが車を降りると含みを持たせて貴代は言った。ちょっとだけ貴代が泣いているようにも見える。
ぼくは無言で頷く。
「うち来る?」と声をかければよかったもかもしれない。いや、それじゃ遅かったんだろう。
時間はまだ4時、「女心はすぐ変わる。か」ぼくは独り言をつぶやき歩き始める。一人で歩く家路までは少し寒かった。
たしか、ぼくが貴代に電話したのは半年後のことだ。
ここまで思い出したところでちはるがやってきた。
「おはようございます!」
「おはよーさん」
「珍しいですね。おはよーさんなんて」
「ちょっとね」