多摩川水景:宿河原用水~久地円筒分水(多摩川旬報221011号)
多摩川水系のあらゆる景色を集める「多摩川水景」。
今回は、多摩川を語る上では欠かせない二ヶ領用水を歩いてきました。といっても、下流側の取水地点である二ヶ領宿河原堰から久地円筒分水まで。二ヶ領用水のうち、宿河原用水と呼ばれる部分を中心に辿りました。
現在進行形の多摩川治水
二ヶ領用水は複数の用水路が混ざり合っては分岐していきます。
おおざっぱに言うと、多摩川から上河原堰で取水した二ヶ領本線と、宿河原堰で取水した宿河原用水が現在の久地駅付近で合流し、平瀬川の下をくぐって久地円筒分水から4つの灌漑用水へと流れる、という具合です。
五反田川や平瀬川、あと過去の上平間からの取水の話なども考え始めるとなかなか整理しきれないのですが、とりあえずそんな感じでご理解ください。
宿河原堰は、1974年の狛江水害によって形を変え、1999年に今の可動堰に変わりました。宿河原堰の変遷については、多摩めぐりブログが詳細かつわかりやすく解説しているので、よろしければこちらも。
ちなみに多摩めぐりブログの執筆者のひとり、「アイちゃん」さんの記事は、多摩川にかかる堰の記事が多く、どれも非常にわかりやすいです。
二ヶ領用水は1611年竣工。以降、稲城領と川崎領の稲作を急激に発展させ、桃や梨の生産をも支え、昭和期には工業用水としての役割まで担うようになります。
同時に、二ヶ領用水をめぐっては水利争いも絶えず、江戸時代から昭和に至るまで、もめごとはずっと続きます。上記に引用した多摩めぐりブログの記事でも、宿河原堰がかつての蛇篭堰からコンクリート堰へと姿を変えたのは、水争いの解決策の一環だったことが指摘されています。
宿河原堰がコンクリート堰として竣工したのは1949年、つまり戦後の話です。それからちょうど25年目に狛江水害によって固定部を爆破することになり、さらにその25年後の1999年に、いまの可動堰にリニューアルしました。つまり、宿河原堰は50年で改築に至ったことになります。そしていまの可動堰はまだ20年ちょっとの若造。
そういう時間のスパンで考えてみると、宿河原堰を含め、暴れ川である多摩川の治水というのは、現在進行形で行われていることがよくわかります。
表情豊かな用水路沿道
水辺を歩いていて何が楽しいのかな、と考えてみると、川や用水を眺めるのはもちろんですが、結局、いろいろな道の姿を見ることができるところに魅力を感じているのではないかと思います。
二ヶ領用水は、未舗装の小径から枝分かれする水路、交差する線路や幹線道路に至るまで、あらゆるタイプの道に出会える用水です。
藤子F不二雄ミュージアムのすぐ近くに五ヶ村緑地というのがありますが、その付近から東へとまっすぐ伸びていくのが五ヶ村堀です。
五反田川から分水した五ヶ村堀は、宿河原用水に合流することなく立体交差し、そのまま高津区宇奈根まで伸びて、多摩川に合流します。
二ヶ領本川との合流地点は、現在の久地駅すぐそばです。
南武線のすぐ脇を、人道橋である新明橋がかかっており、その両岸から合流点を確認できます。
新明橋へは、久地薬局と久地踏切の間から入って行ってください。ちょっとした隠れ小径です。
二ヶ領用水の「へそ」へ
二ヶ領本川と宿河原用水の合流点から先、久地円筒分水までは2キロもありません。
久地円筒分水もまた、水争いの解決策として導入されたものです。
二ヶ領用水とほぼ直角に交わる平瀬川の下をくぐって交差し、サイフォンの原理で地上から再び噴出させます。その噴き出した水を円で囲み、その円周比によって分水量を調節するという仕組みで、四つの灌漑用水に精確に分水していきます。
久地円筒分水の見た目は「へそ」に似ています。
二ヶ領本川と宿河原用水の合流点に近く、またここから多くの集落へと分水していったことを考えてみても、二ヶ領用水の中心地と捉えることもできる気がします。
久地円筒分水は、1941年、太平洋戦争開戦の年に竣工。戦後は、視察に訪れたアメリカの技師によって、本国にも紹介されたと言います。
編集後記
二ヶ領用水の歴史を紐解くと、頻繁に現れるのが「水争い」という言葉。江戸時代から昭和に至るまで、農業需要のみならず、近代化する都市の需要からも、水をめぐる争いは絶えず起きていたようです。
円筒分水のすぐ近くに「久地の横土手の供養塔」があります。
横の解説文によると、洪水時の水勢を弱めるために、多摩川に対して直角に土手を準備するつもりだったそうなのですが、この土手を挟んで利害対立が激しく、工事が中断したとあります。
水争いは、円筒分水のような画期的な解決策に結びつく一方で、その裏にはやはり多くの無益な争いがあったことを思わせます。
何度も同じような過ちを繰り返すことに辟易しながら、しかしいきなり賢くなることはできなくても、ひとつひとつ、ちょっとずつ賢くなるしかないのかもしれないなあと、そんな気分にさせられる散歩でした。
(編集:安藤)