下北沢で素直になれない

上京してきて6年ほどが経つけれど、最近ようやく自分と下北沢という街の相性の悪さに気がついた。

渋谷とか原宿とか、「私が流行の最先端です」という自己紹介が似合う街との相性が悪いのは初めからわかっていた。なんとなく気後れしてしまうし。
でも、まさか下北沢が。
劇場、本屋、レコード屋。こぢんまりした喫茶店、薄暗くておいしい居酒屋。
私の好きそうなものしかない。

そう、好き「そう」なものしかないのだ。
正確に言うと、好き「そう」なものが密集しすぎている、というようなところだろうか。

下北沢にある劇場も本屋も薄暗くておいしい居酒屋も、実際私は全部好きだ。ただ、その気持ち以上に「平井珠生こういうの好きそう〜」が強い。強すぎている。
しかもこの「平井珠生こういうの好きそう〜」は、他者から向けられるものではなく、私が私自身に向けている視線なのだ。厄介。

そんな、セルフ「平井珠生こういうの好きそう〜」視線が向けられる施設があまりに密集していることによって、下北沢という街全体が「平井珠生こういうの好きそう〜」のかたまりとなる。
その結果、私は下北沢に足を踏み入れるたびに自意識というゆるいロープで体をぐるんと巻かれ、徐々に身動きが取れなくなり、やがて素直さを失う。

誰に頼まれたわけでもないのに、こういうの好きなはず、似合いたい、という自らの期待に応えるべく、私は大して喉も乾いてないのに喫茶店に入店しまくり、知識もないのにレコードを漁り、アンニュイな表情で街を歩くのだ。そして疲れ切って小田急線の改札を抜けて帰路に着く。

こうして書いてみると全て自分のせいでしかなくて驚愕してしまった。街はただそこにどんと居るだけなのに、こういう自分監視系人間がたまに現れて、勝手にがんじがらめになって疲れて帰って、相性が悪いとか言われる。ごめん。

下北沢で素直になれないのは、下北沢に居る自分を監視しすぎる自分のせいだ。つまり相性が悪いのは街そのものと、ではない。その街に居る自分自身と、相性が悪いのだ。

これ、希望である。

私の気の持ちよう次第で、これから下北沢をなじみの街かのように自由に素直に歩き回れる日が来るかもしれないのだから。
それで言うと冒頭に巻き込み事故のような形で名前をあげてしまった渋谷や原宿もそうだ。私の東京ライフ、6年目にしてまだまだ可能性しかない。

人生で起こる色々なこと、他人のせいにしちゃいけないと肝に銘じながら生きてきたけれど、街のせいにもしちゃいけなかった。人生すべて自分次第…。
ふと語り始めた街論だったが、まわり回ってこんなに普遍的な結論に着地するとは。

次、できるだけセルフ監視を緩和させて下北沢に行ってみる。
解き放たれて踊っちゃうかもね。

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