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40代サラリーマン、アメリカMBAに行く vol. 23 〜起業家に聞く12
バブソンMBAでの授業とは別に、ボストン・日本人・起業家をテーマに、起業家に会って学ぶ活動。今回はボストンのタフツとスペインのIEのダブルディグリーMBAを取得された後、現在アメリカの大学のラボからスピンオフした企業のCEOを務めるKengo Takishimaさん。Takishimaさんとはハーバードビジネススクールのエグゼクティブ教育プログラムでお会いした。
環境が変わったとしても、
正しくやるべきことは正しくやっていく
Takishimaさんは新卒で働き始めた銀行で多くの経営者と出会い、相続問題や会社の売却、MBO、大企業からの独立といった相談に応えるうちに、経営者とより近い距離に立って一緒に会社を育てていくという意味では、銀行よりもプライベートエクイティの方がより経営をサポートする仕事に携わることができると感じ、プライベートエクイティへ転職。自ら経営者と一緒に会社の再生をしていくハンズオンのスタンスで仕事をするカレイド・ホールディングスに入社した。アパレルのレナウンや、内海造船、大新東などの企業再生に携わる。内海造船の場合は広島の造船工場に行って再生プランと成長プランを作って会社の方々と一緒に実行したり、大新東の場合は本業の自家用自動車管理事業とは別に展開していた日光江戸村が経営の重しになってしまっていたため、日光江戸村を切り離して本業にフォーカスする再生プランを実行したりした。どの仕事もまずは企業の経営状況を見て経営戦略を提案し、会社の人たちと一緒にチームを組んで着実に実行していく。このPEでの経験が現在のCEOの仕事に役立つことになる。
TakishimaさんがCEOを務めるBaylor Geneticsは遺伝子検査を担う。患者から検体を摂取し、例えばコロナ検査ならコロナが陽性か陰性かを判定するが、遺伝子検査は遺伝子に変異があるのかないのかということを判定する。例えばがんや希少性疾患、出生前検査における遺伝子検査などを行っている。
この会社は元々アメリカの大学に所属していたラボだった。そこをTakishimaさんが中心となって大学からのスピンオフを実行し、その独立を助けたことにより事業がスタートする。ただし最初にあったのはラボにいた研究者や技術者たちだけ。HRやIT、会計といった機能は全て大学のシステムを使っていたため、大学から独立したと言っても何もなかった。しかし当初80人ぐらいだった研究者たちは、現在500人ぐらいにまで増えている。Takishimaさんはどうやって会社の急激な成長を実現させたのか。ここにPE時代の経験が生きた。
まず、どこから手をつければいいか、優先順位をしっかりと見極めること。会社の駄目なところは挙げればいくつも出てくる。その中から、ここに手をつけてここを直していけば一番効果が出そうだなと自信が持てるところに取り組むことだ。
次に、環境が変わったとしても、正しくやるべきことは正しくやっていくという強い意志で取り組むこと。「アメリカと日本では、たしかにカルチャー、人の考え方、人の取り組み方に違いはあります。しかしビジネスの基本は一緒だと思っています。もちろん相手に伝わるコミュニケーション方法にアジャストしていかなくてはいけないし、そのために私も学ばなければならないのですが、ビジネスの基本は大きく変わらないと思いますので、粛々と基本に忠実に取り組んでいくことが大切だと思います」と話す。実はTakishimaさんはこの会社の立上げ当時はCFOとして加わり、CEOは現地で雇っていた。しかし、その人がすぐに辞めてしまった。彼は社内で駄目な人がいたとしても、その人を入れ替えたりすることができなかった。周りから嫌われることを避けてしまうところがあったという。「私はあまりそうしたしがらみに捉われないで、やるべきことをしっかりとやってきたことが大きかったと思います」
最後は、長期プランを持って取り組むこと。会社を短期的に立て直せばいいと考えるのではなく、長期的にこの会社を本当に業界トップの会社として業績を伸ばしていこうと考える。長期的に見て何をやれば会社が一番成長できるのかを、マーケット環境に振り回されることなく、顧客に集中して行なう。そのためのCEOの役割は、社内で止まってしまっているボールを押し続けること。押し続けて、押し続けて、組織が動き出して、勢いが少しずつついてきて、ようやく従業員が自分たちで進んでいくようなイメージだ。ぐぅっと押すのに4、5年はかかったようだが、そこからはある程度会社が自走できるようになったという。長期プランを持って取り組んでいたので、結果的に周りがついてきてくれたのだと話してくれた。
私が経営をやっていきますと
社内に提案した
MBA卒業後はGEで国際的なプロジェクトを担当されていたが、元々行員時代から抱いていた経営の仕事に取り組みたい気持ちが強くなる。ただし、彼がその時自分が持っているものを考えた時に、特定の業界経験といったなんらかのドメインに対する専門性が無いことに気づく。専門性がなければ経営者として役にたたないだろうと思い、考えた結果ヘルスケアの分野で専門性を高めていくことに決めた。銀行で医療系の企業を担当していたことと、医療や健康に興味があったこと、そして人の役に立つ仕事だということで、このドメインを選択し医療系の会社に移った。
日本の医療系企業では、グローバル市場におけるビジネスディベロップメントやM&Aの業務に携わっていた。会社は将来的に面白い医療技術をリサーチしていて、その中の一つとして遺伝子に着目していた。さらに以前にアメリカ企業の買収をしていたこともあり、アメリカで追加買収できる案件がないかを探していたところ、遺伝子検査のBaylorの話が出てきたのだった。そしてこのラボを大学からのスピンオフを実行させて、その独立を助けるというプランを立て、社内の経営陣に提案したのだった。
前述の通り、現地で雇った社長はすぐに辞めてしまった。この事態をリカバーする必要があったわけだが、Takishimaさんはこれを元々自分が携わりたいと思っていた経営の仕事に就けるチャンスだとも考えた。そこで、「私が経営をやっていきます」と社内に提案した。そして現地ヒューストンに赴任する。彼はその時をこう振り返る。「もしかしたら会社はこの時、私には投資先がおかしくならないようにする程度の期待しかしていなかったかもしれません。しかし私自身はその様には考えていませんでした。この会社のポテンシャルを最大限に生かしながら、将来的にしっかりと成長していける形にしたいと思っていました」
会社を短期的に立て直せばいい、日本の本社に迷惑が掛からない程度に立て直せばいい、といった風には考えていなかった。最初から、長期的にこの会社を本当に業界トップの会社として業績を伸ばしていこうと考えていたのだった。大学からのスピンオフの案件は簡単ではなく、アカデミックな文化を営利企業の体制へとトランジションしてポストマージャーを進めていける人というのはなかなかいない。その中で、正しくやるべきことは正しくやっていくという強い意志を貫いて、企業を成長へと導いたのは、会社を本当に成長させたいんだというTakishimaさんのこだわりがあったからだと勉強させてもらった。
※TOP画像はFreepik.comのリソースを使用してデザインされています。
著作者・出典:Freepik
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