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痛ファンとは何か、ファンとは一体何か
1.はじめに
あるお笑い芸人兼ミュージシャンがいる。そのファンの方が書いたnoteが話題になった。
お笑いに興味のない妻からも「あれでとりあげられている芸人は一体何者であるか」と問われるLINEが来たくらいにはSNSで話題になった。
僕は伝統芸能・講談に従事する芸人である。お金や時間を使ってくださる方々、応援してくださる方々が居る立場である。
ファンだ、という言葉もちらほらと目に耳に入ってくる。ありがたいことである。
それでいて僕は芸人のファンでもある。ある漫才コンビを追いかけており、空いている日にはライブに足を運び、ネットラジオを聴き、インターネットを利用しての各種課金行為にも手を染めている。
仕事を共にしている友人からは「痛ファン」呼ばわりされる始末でそのたびに僕は頬を赤らめ含羞である。
ファンがいる立場で、ファンでもある、という現状の僕の立場からすると、件のnoteはある種刺激的なものであった。考えることも多かった。
なのでここに僕のファンに関する感慨を記しておこうと思う。
2.痛いファンとは何か
まず、僕が友人から与えられている「痛ファン」という称号であるが、これはすなわち「痛いファン」ということであろう。痛い、というのはどういうことであるか。すなわち見当はずれな行為に手を染めるファン、ということである。悲しいことである。痛ファンにありがちな悲劇である。どこがどう痛いのかわからぬ。出待ちも差し入れもしたことはなく、不満や苦情をSNSに書き散らすこともない。いや、しかし、こういうnoteを書いているという時点で(そしておそらくこのnoteは長くなる)痛いのかもしれない。
ファン目線から考えると手詰まりであるから逆から考える。芸人として活動していて、痛いファンというのはどういう人々か考えてみる。
痛さ。これには明確な基準はないように僕には思われる。
痛さ、痛くなさはファン個人個人の資質にも、受け手の資質にもよる概念であろう。
例えばお笑いライブに行って大きな声で笑う、ということも行う人によっては痛いこともあるし、そうでないこともある。また我々芸人の感じ方も千差万別で、その日の空気にもよる。
痛い、痛くないに明確な基準というのは存在しておらず、その日の全ての空気と己と周りすべてのスペックを読み込んで、そしてふさわしい行動をとるように自らを律することができる克己心があってようやく「痛くないファン」に「なれる」わけで、これは大変に難しいことだ。人が主観で以て状況を理解する、という構造になっている以上完璧には無理、と言ってよい。芸人目線で言うと、こっちもそこまでしてもらわなくても良い。と強く思う。
しかしだからと言って各種ライブ会場が痛いファンだらけか、というとそうではない。殆どが本当にありがたいのみ。痛くないファンで会場はあふれて(もちろん単純にお客さんが全然いないってこともあるが)いる。しかしその殆どの「痛くないファン」は勝ち取ってのものではなく、己の変えることのできないスペック、対象のスペック、界隈の空気感、その時々の状況などの変更するのが難しい要素によってたまたま成立している。それは「痛ファン」についても全く同じことが言えるのである。そうなると運である。まるっきりの運。
であるから、「あの人は許されて、私は許されない」というようなことははままある。
大きい声で笑う、というのも、男だったら、女だったら、あんまりにも特徴的な声だったら、笑いのツボがずれていたら、フリから可笑しくてしかたなくて爆笑していたならば…
その場その場によって正解の態度というのは違ってくる。
これを守っておけばよい、という基準はない。
ではどうするのか。好きにふるまうのか。違う。
痛い、痛くない、もっと一般的な言葉を使えば、ふさわしい、ふさわしくない、悪い気分にさせたくない、迷惑はかけない、何か良くしていきたい、というのを、それぞれのファンの中で考える必要は、すべての人間関係がそうであるように、ある。
僕たちはそうやって生きていくべきだ。
もちろん考えた末の行動が、人を傷つけたり、応援している対象から嫌われるきっかけになったりもするが、それはすべての人間関係がそうであるように甘受するほかない。
今は叩かれがちな圧倒的間違いとしての地位を確固たるものにしているファン行為「ファンが苦情や不満を書く」という行為でさえも「痛くない」タイミングというのはやって来る可能性があるし、ポジティブなことを書く、ということが「痛い」というタイミングさえ来る。
そういうことを週刊誌を賑わせている某大物芸人のファンを名乗る人々を見たりして思ったりもする昨今。
客観的に基準となるラインを引く、ということはそもそも不可能なのである。
痛いファン、痛くないファン=良いファン、悪いファンというのは、ファンというものが継続的にその人を応援する、という概念である以上、峻別することができず、その場その場で判断して動いていくほかないのである。
3.閑話休題
ここで一度正気に戻ってみる。
何故こんな論議を2000文字近く使って組み立ててきたかということである。
僕はここ最近居心地が悪かった。
ある漫才コンビの解散の詔勅があった、そして某noteの騒動があった。前段で引き合いに出した某大物芸人のファンを名乗る人々のムーブ。SNSを観ているとファンである自分に効く毒、があふれていた。
自分は痛いファンだから、どこが痛いかわからないけれど痛いファンだから、このようにファンであることに嫌悪を憶えるのではないか。
では、己の中で痛いファンと痛くないファンの線引きを曖昧にして自分の心を救おうではないか。と8割本心、2割の無理筋と相対化によって痛いファンと痛くないファンの同化に(己の中では)成功したわけだが、それでも僕の心は晴れないのである。
何故か。
酒を飲みながら一人ぼっち、気色悪い顔に気色悪い涙など浮かべながら考える太ったおじと化した僕。結論というか、一つの答えらしきものにたどり着いた。
4.ファンとは何か
ファンというのものを、ファンを持つ人々はありがたがるから、それを金科玉条にして錦の御旗にして僕たちは「ファンでござい」なんて顔をしているが、そもそもファンってのがそんなに褒められた状態ではないのではないか。
ということである。
ファンである、ということを良いファン、悪いファンを別にせずに考えてみた時に僕はこう定義できると僕は思う。
「ファン」=「可処分時間や可処分所得を特定の対象にバランスを欠いて注いでいる人、そのように見える状態の人」
つまりファンとはバランスを欠いた、いわば異常状態なのである。
他人から見れば異常な状態なのだ。何故それにそんなに金と時間を使っているのか、意味不明な状態なのである。
そして人は他人の意味不明な状態をバカにする習性があるように思う。
新興宗教信者への冷たい目や、政党支持を明確に打ち出している人々への(笑)や、右派左派中道すべてのデモへの冷笑。
それらと同じものが、様々なファンに向けられている。我々には向けられている。
さらにそれらの規模が小さければ小さいほど人はバカにする。するようになってしまっている。
例えばあなたの知っている、あなたの信じていない中で、最も小さい新興宗教や、最も小さい政党を信じている人をイメージしてください。その人と会話ができる感じがあんまりしなくないですか?
つまりはそういうことなのである。
ファンそれ自体が見下げられる存在なのだ。
もちろん信仰や政治的信条と同じように、内心の自由を謳歌して、それらの思想信条を全く表には出さず、ただ粛々と毎日を過ごす。心の支えにして、という生き方もあろう。そのように生きれば誰からもバカにされることはあるまい、と思う。
僕が高座に上がらない、舞台に立たない人間ならばそれでももうオッケーだったかもしれない。結論は出てこの長いnoteも終わり。暮らしが始まるだろう。
しかし、しかしながら僕は僕で芸人なのである。ここがややこしく、このnoteもまだ続く。
芸人からすると、この、ファンの方からのファンであるとの公言が、告白が、どれほどまでに力になるか。ということがある。
これは本当に大変なことだ。
その言葉に、態度に、そして資本の投下にどれだけ助けられ、実際的に生活をさせてもらっているか。
SNSが無い時代ならば違ったかもしれない。でも今はSNSがある時代なのである。もう昔には戻れない。SNSがあり、そこには感想を書く、という社会になのだ。
エゴサーチをして、自分がほめられている時の天にも昇るあの気持ち。心の弱い僕は何度救われたことかわからない。
我々舞台に上がるものは人に認められたい、というところがあるのだ。表現をする人、ものを作る人には結構そういうところがある気がしている。
自己では埋められない不全感を他人の反応によって埋める、ということでしか健康を目指せないという不健康が。そういう業があるから儲からないのにこういう仕事を辞められない。大変なことである。
だから、黙ってファンで居る、というのも芸人目線からすると、どうだろう。それでいいのか、って思いになるのである。
ここで僕は股裂きになってしまう。
芸人側、そして芸人を使って金儲けをする側はファンであること、つまり信仰の公言、告白を要請するし、それを肯定してくれる。が、僕たちの生きている社会規範は暗に沈黙を要請している。
一体僕はどうすればいいのか。わからない。わからない、わからない。
と悩むわけだが、ここまで考えた時に、ふと気づく。心の風通しが良くなっている。
どういうことか。
5.僕たちはどう生きるか
公言してほしいのに黙る。というのはファンとしてもこれ心苦しいことである。よくわかる。公言、告白できない苦しみというものを考えた時に胸をかきむしられるような感じを、ファンとしては思う。同情する。
そして、同情したうえで、その胸をかきむしられる感じで黙っているファンの人、というのを芸人として想像した時に「もっと俺が大きくなって、それを応援していることが怪しい新興宗教を応援している、ということにならないように、仏教好き、花祭り最高。くらいにカジュアルに言ってもらえるように頑張らなければならない」と意気軒高な気持ちになってくるのである。
そして公言をすることについて。ここまで考えてくると、公言することへの負荷がすごい。しかし、ファンの自分としてはそれに負けたくないとも思う。もはや信仰なのかもしれない。他の人に気持ち悪いと思われてもファンである、面白かった、素晴らしかった、と伝えずにはおられない。そういう気持ちに僕はなった。それが何かになる、という実感だけは僕の芸人の心には刻み付けられているから。
そして公言をしてくれるファンの方々への感謝の念も下呂温泉くらい湧いてくる。熱くて、量が多い。あの変わった政党を支持している、と言っているくらいのリスクを背負っての公言である。泣けるではないか。はっきりと泣いてしまうよ。
そしてここまで至った上で社会を見る。様々なもののファンがいる。その人たちが好きと言ったりしているが、それらの言葉を今迄「自分が関心のない何かを好きな人」として蔑視する気持ちが心の奥底に確かにあったが、その気持ちが氷解していくのである。
自覚的であるかないかはわからない。それは僕からは観察することはできないが、上記のような想像力を持って様々なコミニュティと言葉を捉えなおすことができた時、僕の心はぐっと軽くなったのである。
僕がファンであるように、誰かも誰かのファンである。その想像力を持ってすれば、SNS横溢する一億総ファン社会が少し優しく見えるのだ。
そしてその発露は痛くないものも、痛いもの。ある。しかししかし、最初に書いた通り、痛い痛くないの線引きというのは曖昧なのである。痛いのは失敗なのである。
もはや自分のファンを名乗る人間から文句を言われても、ピンとこない分析をされても、かまわない気になることができた。
愛ゆえのことだったと笑ってくれ。である。
かといって我々ファンはふさわしい、ふさわしくない、悪い気分にさせたくない、迷惑はかけない、何か良くしていきたい、というのを、それぞれのファンの中で考える必要はやはりある。
家までついていったり、殺害予告をしたり、恋人になりたいと思ってアプローチをかけたりすることが、対象のその人の為になる可能性は限りなく(これは本当に限りなく。0パーセントじゃないということが想像できないけれど、厳密には言いきれない。厳密には言いきれない、ということだけを頼りにこのファン論は組み立てられているから勘弁してほしいけど、マジ0よ。0)0である。本当にそれをするべきなのか。それを人間関係として考え続けること。それがファンであり続けるということであろう。
これで僕もファンを続けることができたハッピーエンドだ。
痛ファンと言われる意味がわからない、と書きだしたこの文章だが、もう5000文字を越えようとしている。これは確かに痛いってやつかもしれない。そういえばこのnoteを書くきっかけになった某芸人の痛ファン(と言われている)の彼も文章が長かった。僕はあいつのなのか。それはそれで、なんだか釈然としないというか納得しないというか。感情が波立つというか…。
ファンでいる、そのために考え続けるということもなかなか骨が折れるものである。