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日常ブログ #31雪





先月、東京で雪が降った。
その日はたまたま舞台を見に行く予定があり、私は日が暮れてから出かけていた。
日中とは打って変わって、家を出た瞬間に吹いた風があまりに冷たいので、慌てて部屋に引き返しより暖かい服装に着替えた。
そのため電車の時間に遅れそうになり、体だけじゃなく肝まで冷えた。
雪が降りそうな雲だ、と思って地下鉄に乗り込んだが、乗り換えで地上に出た時、予想通り雪が降り始めた。
天気予報をチェックするのを忘れていて、その日雪予報が出ていることを知らなかったのだ。
しまったと思い、そこはかとない不安を覚えた。
もしかしたら電車が止まってしまうかもしれない。
舞台を見逃すのはまだいいが、家に帰れなくなったらどうしたらいいのだろう。
様々な懸念事項が頭をよぎった。
予報を調べてみたら、幸い雪はすぐ止むようだった。
一旦は胸を撫で下ろしたが、やはり観劇中もどこか落ち着かない気持ちがしていて、お芝居にあまり集中できなかった。
劇場を出た時、すっかり雪が止んでいて積もることもなく、電車も通常通り動いていることを確認してから、ようやく安心できたのだった。
そもそもずっと家に引きこもっているっていうのに、こうやって時折出かける日とか、帰りが遅くなる日に限ってトラブルが起きてヒヤヒヤするのは何なのだろうか。
きっと引き運がないのだ。
いや、逆に持っているのかもしれない。
物事は考えようだ。都合よく解釈してやろう。

帰りの電車の中でそんなことを考えつつ、ふと気がついた。
こうやって雪が降ったことをめでたく思わないのは初めてのことだ。

私の地元はどちらかと言えば暖かい気候だ。
実家が古い家で隙間風がひどいので、学校の地理で習った時には嘘をつけ!と怒鳴りたくもなったが、たまに帰省ををすると、確かに東京に比べて若干?気持ち?暖かいと思う。隙間風はひどいが。
今更ながら理不尽に怒って申し訳なかった。
当時の地理の先生、すみませんでした。
だから、地元で雪が降り、ましてやうっすらと積もるなんてことがあった日には、それはもう学校中に轟く一大ニュースだった。
見慣れた通学路も校庭も真っ白になってまるで別世界のよう。
さらさらとした細かい雪が降る中登校してきた同級生たちは、教室に入ってくるなりみんながみんな「雪降ってんね!」と叫ぶ。
傘もささずに数十分かかる通学路を歩いてきた猛者は上着や荷物に大量の雪を付着させて自慢し、暖房の効いた教室で雪が溶けて、ものの数分で席の周りをびしょびしょにしていた。
休み時間に校庭で遊ぶのは低学年の道楽だと斜に構えたマセガキばかりの学校だったが、その日に限ってはみんなそわそわと外の様子を気にして、校庭にまだ人の踏み入ってない純白の地が残されているかどうか、窓から仕切りにのぞいて確認していた。
そんな様子で生徒が全く授業に集中しないからか、予定を変更してただ雪景色の校庭を走り回るだけの授業という、先生の粋な計らいがあったりした。
今思うとあの時間は何だったのか。
特に小学校の頃の子供時代なんて、雪が降ったらもう雪が降っているという情報を除いて全てが頭から吹き飛んでいったし、積もったら尚更だった。
何にも聞いちゃいないし、耳に入っちゃいない。
そういうテンションの上がり方をしていた。
それくらい雪が降って積もるというのは特別で、凄まじい魔力を持っていた。

そう、雪には魔力がある。
名付けてスノーマジック。
本能的に雪を求めている太平洋面関東人は、ことさらスノーマジックに当てられてしまうのだ。
スノーマジックを実際に体験したのは、小学一年か二年かの低学年の時だった。
私が雪は雪であると認識し、地元では雪が降りづらく、雪が降ることはとても珍しいことなのだ、と理解できるようになってから、初めて地元で雪が積もった日だった。
その日は平日で、普通に学校がある日だった。
しかし、外に出て遊びたくてたまらない。
早朝のまだ誰も通っていない家の前に出て行きたくてたまらない。
そうやって窓に齧り付いて外を眺めていたら、学校の支度を終えたら少しの間外に出て雪を見てきていいと、親に許可してもらえた。
私は超特急で支度を終わらせ、すぐに家の外に飛び出した。

雪である。
見渡す限り全てが白い。
まるで近所の風景の上に白い絵の具を塗り重ねたみたいだ。
でもこれは絵画ではなく現実なのだ。
こんなのは見たことがない。
振り返れば、自分がつけた足跡が、真っ白な層の上にポツポツと点を作っていた。
もっと足跡をつけたいと思ったのか、もっと真っ白に染まる景色を見たいと思ったか、今となってはわからない。
記憶が不明瞭である。
きっとその時にはすでにスノーマジックにやられ、雪のとりこになっていたのだろう。
私は雪を踏みしめるように歩き始めた。
その時、家を出る前に、玄関から見える範囲より遠くには絶対にいかないこと、と口酸っぱく言われていたことなど頭から吹っ飛んでいた。
どれくらい時間が経っただろうか。
どこをどうやってどういった経路で辿ったのか全く覚えていないが、私は家の目の前の建物の屋上にいた。
今はどうなっているのか知らないが、当時はスロープと階段を渡ると屋上に入れるようになっていた。
時間も忘れ約束も忘れ、朝日を反射する雪の美しさにいたく感動していたところ、父が私を探しにきたことに気がついた。
何だ、もう時間か、いいところだったのに、ちぇっ、みたいな気持ちで屋上から降っていったら、拳骨を落とされた。
何が何だかわからないまま家に連れ戻されると、憤怒した母にまた拳骨を落とされた。
朝からダブル拳骨。
スノーマジックに支配された頭もいやでも覚醒する。
間違いなく私が悪かったのだが、どうしてこんなに怒られているのか理解できないまま、わんわん泣いた後すぐに学校に行かなければならず、何となくバツが悪い感じがしたまま登校した。

こうやってスノーマジックは人を誘惑するのだ。タチが悪い。
あの時は私もまだ子供だったし、雪に対する免疫もなかったので、もう少し行き過ぎてしまったら完全にあちらの世界に取り込まれていたかもしれない。
もしかしたら今頃氷漬けにされて、夏になったら出回って、削られて、かき氷になって、繁盛していたかもしれない。
危ないところだった。かき氷にならなくてよかった。
もう当時のことなんてろくに覚えていないが、あの時見た雪の感動と、くらった拳骨の痛みはよく覚えている。

ダブル拳骨を喰らって雪が嫌いになっても良さそうなものだが、それ以降もずっと雪が好きだった。
変わらず教室で同級生たちと騒いだし、校庭に出て意味もなく走り回った。
中学生になっても高校生になっても大学生になったって変わらなかった。
理由はないが、ただ好きだし、降ったら嬉しかったのだ。
それがどうだ。
電車の遅延の可能性という極めて現実的な理由で、こうもあっさりと長年のスノーマジックの幻想は打ち砕かれた。
ダブル拳骨にもできなかったことを電車の遅延がやったのだ。
意外とショックも戸惑いもない。
そんなもんか、とあっさりとした心持ちがする。
それと同時に、何とまあ現金な人間だ、と自分に呆れるような気持ちだ。

私はもう、無条件に雪ではしゃげるほど子供じゃないのかもしれない。
まず身の安全を優先するように物を考えるようになったのかもしれない。
今の私だったら、ダブル拳骨事件時のスノーマジックには惑わされないかもしれない。
これは私も真に大人になったということなのかもしれない、と思った夜だった。

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タマ
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