日常ブログ #22大人
人はいくつになったら大人になるのだろうか。
私は実年齢だととうに20歳を超えた大人なのだが、その自覚はない。
何らかの書類に年齢を書くときや、自己紹介するときなどに、あれ!?こんなに歳とってたっけ!?と毎回びっくりしている。
自分が大人であるという認識が全くないのだ。
かと言って、精神年齢が低いというわけでもないようである。
歳を重ねるにつれて趣味嗜好も変化してきた。
週刊少年ジャンプから月刊アフタヌーンを愛読するようになったことが何よりの証拠である。
では何が幼くて大人の実感が湧かないのか。
私はある仮説を立てた。
実年齢、精神年齢の他に、能力や思考などから判断して自分はこれくらいの年齢にふさわしいだろうと自称することができるとする。
そしてこれを、自覚年齢と呼ぶ。
自覚年齢とは、自分はこの歳まで確かに年齢を重ねたと認められる指標のようなものだ。
それで言うと、私の自覚年齢は14〜15歳である。
中学の頃までは、能力と精神が年齢に伴って成長している実感が確かにあった。
しかし、それ以降は歳をとるばかりであらゆるものが停滞の一途を辿っている感じがしている。
よってこの自覚年齢だ。
永遠の15歳☆ 何て言いたくもないが、私の自覚年齢は15歳で時を止めてしまっている。
それは事実である。
あるいは、世間一般的な15歳が私が15歳だった頃よりも賢く優秀だと考えると、自覚年齢はさらに下がることになる。
これが私の立てた仮説、見た目は大人、自覚は子供、その名も逆コナン説である。
なぜ実年齢に比べて自覚年齢がこんなにへなちょこなのか。
その理由は圧倒的な自信のなさに加え、私が思い描いた大人像に現在の私が一致していないからではないか、と考える。
私が思い描いた大人像。
それは、お酒をかっこいいバーでかっこよく飲む人である。
20歳を超えた私から過去の私へ。真実を伝えよう。
それは大人ではなく、かっこいい大人である。
20歳になったばかりの時、この偏見と妄想まみれの大人像に挑戦しようとしたことがある。
まずはお酒。
お酒をかっこよく飲めないと大人とは言えない。
そう思いスーパーで様々なお酒を買って飲んでみたが、結果は全て惨敗。
缶チューハイの半分も飲み切ることができなかった。
全て『初心者におすすめ!』とネットで調べたら出てきたお酒だった。
アルコール度数も3%前後の弱いお酒だった。
私はアルコールに弱い体質だったのだ。
私はショックを受けた。
高校を卒業して20歳になったら、必ず髪をキンキンの金髪に染めてバチバチにピアス開けてかっこいいバーでかっこよくお酒を飲むと固く決めていたのだ。
いないとは言わないが、二十数年生きてきてそんな大人には会ったことがない。
実際、現時点で何一つ叶えられていないし、既にモチベーションを無くしてしまったので、完全に失われた夢と化した。
かっこよくお酒が飲めないのならかっこいいバーに入れるはずもない。
そうして泣く泣くかっこいいバー飲みを諦めたのである。
それでも私は大人なので、かっこいいどこかでかっこよく何かを飲む必要があった。
それが真に大人になるということだからである。
かっこいいどこかでかっこよく何かを飲む習慣が、一種の通過儀礼のように考えていたのかもしれない。
あるいは、ドラマの見過ぎだったのかもしれない。
晩酌の夢が絶たれた今、一体どこで何を飲むべきなのか。
私は考えた。
迷い、悩み、模索し、辿り着いた一つの答え。
それが、コーヒーである。
何を隠そう、私は甘党である。
ブラックのコーヒーなんて一滴口に入れただけで悶絶するほどだった。
それでも大人になるために、私はブラックコーヒーをかっこいいカフェでかっこよく飲む必要がある。
これはミッションだ。
私が大人の階段を登るために課せられたイニシエーションミッションに他ならないのだ。
この無駄な責任感とモチベーションをもってミッションを完遂するべく、私の心の中で、ブラックコーヒー飲めるかなキャンペーンが開催された。
コーヒー好きの母におすすめの飲み方について教えを乞い、少しずつミルクと砂糖の量を減らして、コーヒーを飲み続けた。
来る日も来る日も、チャンスがあればコーヒーを飲み続けた。
そしてキャンペーン開催から数ヶ月が経った時、ついにその瞬間が訪れたのだ。
一口コーヒーを含んだ時、すぐにわかった。
私は、何の苦もなくブラックコーヒーを飲めるようになっていた。
私は成し遂げたのだ。
私は成長した。
おもちゃのようにちんまりとしたティーカップに、角砂糖3つとミルク1つ入れてようやく飲めるかどうかという次元にいた私が、ついにブラックでコーヒーを飲めるようになったのだ。
実に感動的な瞬間だった。
あとはかっこいいカフェで、かっこよくコーヒーを注文し、かっこよく飲むだけである。
とうとうミッションを達成できる。
私は年相応の人間になれるのだ。
しかし、喜ぶのも束の間だった。
その頃は飲めるようになった嬉しさでたくさんコーヒーを飲んでいたのだが、コーヒーを飲んだ後の体調の異変に気がついたのである。
疲れが取れにくくなったり、ぐっすり眠れなくなったり、動機がして身体何だるいといった症状が現れた。
そしてその症状は、コーヒーを飲んだ日、濃いめの緑茶を飲んだ日、エナジードリンクを飲んだ日は特に顕著だった。
私は、原因はカフェインであると悟った。
私はカフェインに弱い体質だったのだ。
こうして、せっかくコーヒーが飲めるようになったのに一度もカフェに行かないまま、夢は終えてしまった。
私は深く落胆した。
お酒もダメ、コーヒーもダメ。
じゃあ何を飲んだら私は大人になれるのか。
どこで何を飲めばいいのだ。
私はこのまま生涯子供のままなのだろうか。
そんな不安と絶望の淵を彷徨っている時、私の周りにいる多くの大人たちはこう言ってくれた。
「好きなものを飲め」
私はハッとさせられた。
そんなこと今まで何回も言われてきたけど、まるで耳に入っていなかった。
そうだ。大人とはどこで何を飲むかによって決まるのではない。
何をもってどう判断するか、その心の内で決まるのだ。
下らない偏見に頼って馬鹿馬鹿しい努力をし続けてき私の、なんと愚かなことか。
それでも、無駄な努力ではなかった。
アルコールとカフェインに弱いということを自覚し、無謀な夢を諦めるために必要な挫折だったのだ。多分。
変なこと言ってないで好きなもの飲みなよ、と最初に言われた時に止めときゃよかったんだ。
意地になってしまっていた。反省である。
夢を捨て、反省を踏まえ、自分の好きなものを自分で選んで飲むようになった私は、一段階自覚年齢が大人になった。
そうやって私は、おおよそ中学生くらいの判断能力はあるだろうと自覚するに至ったのである。
こうやって書いていると、飲み物選択と大人の概念に関してはむしろ小学生以下なのではと思えるから恐ろしい。
早く年相応になりたい。
かっこよく大人になるという夢は叶う前に果てたが、正真正銘の大人になるという目標そのものは無くなっていない。
いつか私の思う私なりの正しい大人像を見つけ、それを達成して自覚年齢を爆上げしたいと思う。
そんなささやかな野望を抱いて、今日も私はオレンジジュースを飲む。