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看護学生の違和感が埋もれないように

縁があって、精神科の看護師さんたちと院や社会人の方と語る機会があった。

お互いがどんなことを研究しているのか・学びに対する想い、看護に対する想い、社会の不条理についての話などなど。

普段からそういうことをよく「考える」人の集まりだったのと、普段歳が5つほど離れている方とそういう話をできる機会はなかなかなかったからとても新鮮だった。

今日は、その中で私がショックっだったことを、忘れたくないなって思ったことをnoteに記録したい。


精神病棟の実際。

例えば、拘束とか。

知識としては知っているし、色々な事情を考慮した結果として、拘束という手段が取られていることも、頭の理解はできる。

だけど、どうしても心の理解が追いつけない。
どうしても、精神病棟の実際の話を聞いていると、もっとその人に物理的・心理的制約を与えない看護ができないのか、と考えずにはいられなかった。

私の持つ倫理観は、そういう状況に違和感を持って、憤りと落胆と無力感を混ぜ合わせたような感情が心を支配した。


看護師さんは言った。
「働いていると、それがこの病院での普通だから、慣れていく部分はあるよね。」

そっか。毎日働いてれば、はじめの時の衝撃も慣れていくものなのか・・・。

それがショックだった。

慣れたら、私の倫理観という価値基準も環境に適応するにつれて変わっていってしまうんだろうなあ。それってすごく怖いな、違和感だったものが当たり前に埋もれて思考停止になるかもしれないってことだよね。怖い・・・。

そういうことを話を聞きながら考えていたら、もう涙で視界が滲んでいた。


誤解を与えないように、加えておきたいが、私が違和感を感じていることを、「普通・よくあること」だと考えている病棟の看護師さんに落胆したわけではない。むしろ、先輩看護師の「看護観」や患者と向き合う精神・態度には心から感服・尊敬した。


私が怖いと思うことは、考えなければ何事も慣れることができてしまうということ。

そして、自分の見える世界の視点にどうしても偏ってしまい、フレッシュな感覚をなくすかもしれないこと。

看護師として働くということは、病棟という世界の枠組みの中で、医療という範疇の中で過ごすことが多くなる。

そしたら、その枠組みの外からの視点が薄れてしまうかもしれなくて、自分の看護観が鈍ってしまう可能性を身にしみて感じた。

でも、はじめに感じた違和感をいつまでも持ち続けることが必ずしも正しいことなのかどうかもわからない。

まだ経験も知識もない段階の私だからこそ感じた違和感。
看護師の手をつくせるリソースの限界とか、患者の安全とか、その他のいろいろな事情とかを考慮したら、それは違和感をもつ必要がないものとして、考えが変わっていくのかもしれない、というか、それでいいこともあるかもしれない。


学生時代に感じた違和感を働くうちに忘れてしまうのは、怖いなと思うけど、おかしいと思ったことに異議を唱えることが正しいか、それとも、与えられた環境や役割の中で最善を尽くすのが正しいのか、わからない。

でも、きっと、はじめに感じた違和感って、自分が将来自分の看護に迷った時に見直す一つの切り口になると思うから、それを言葉にして記していくことにいつか意味が与えられるかもしれない。

最後まで答えのないを問いに答えようとし続けるのが看護だと思っている。それは難しいけど、だからこそ、看護ってやっぱ面白いしやりがいがある!

わからないからこそ、ちゃんと考え続けながら、看護・ケアをする人間でありたい。


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