新紙幣で盛り上がってるけど…
※この記事は自分のために書きました。忘れたくない姿勢だったから。
「物事はただそこに在って、意味を見つけるのは自分」という話。
2024年7月3日、20年ぶりに新紙幣が発行された。
報道では「各業界の新紙幣への対応状況」や「なぜデザインの変更をしたのか」などを取り扱っている。
けれども、僕がよく利用するSNSである「X(旧Twitter)」では、
「新紙幣手に入れました!」
「新紙幣の数字のフォントが違っててキモい」
「描かれてる人、知らん」
「渋沢栄一は婚外子が…、妾が…」
という投稿が目につくし、いいねやインプレッションの数字が多い。
利用しているSNSの特性もあろうが、「なんだかなぁ…」と思う。
それ、どうでもよくない?
他人が新紙幣を手に入れようが、デザインの美醜についての感想を述べようが、知らんがな。
みんなヒマなのか、ヒマ人にかまってあげる良い人なのか…。
「知らん」の先が分かれ道
「描かれている人、知らん」はまだマシか?
「無関心」?「無知の知」?
「日本のお札に描かれる人物」は
とのこと。
”国民各層に広く知られており、その業績が広く認められている”とされている人物を「知らない」ことに危機感を持った方がいい。
知ろうとすると「労力」がかかる。そこを面倒くさがって「無関心」ぶるのはカッコ悪い。
でも、こんな姿勢の大人が増えた気がする。
知的好奇心、大事。
過去のことをとやかく言うやつ
これは別の機会に書きたいと思っていることだが、僕らは
歴史の上に立っている
良いも悪いも。
今の私たちの生活があるのは過去を生きた人々の結果だ。
手元にスマートフォンがあるのも、普段の衣服が着物でないのも、娘が保育園に入れたのも、僕も妻も好きな職業に就けたことも、全て過去を生きた人が築いてきたモノの上に乗っかっている。
「渋沢栄一は婚外子が…」とか。
過去の出来事を、今の価値観で批判することに意味はあるのか?
「こんな悪い(=受け入れられない)ことをやっている。一方で良い(=受け入れられる)こともやっている。そんな人物から学べること、自分の「糧」となることはないだろうか」
こんな風に建設的に考えればいいのに…。
潔癖社会
政治家に対して的外れな批判をする人が増えた気がする。
清廉潔白、品行方正、謹厳実直。
一点の曇りもない、脛に傷のない、聖人君主を求めているのだろう。
そんなもの存在しない。
存在しないから「理想」であり、「人として」その姿を追求していくものなのだ。
「国民の代表なのだから…」という意見も理解できる。
しかしそのような瑣末なことではなく、
「国民の生活がより良くなったか」
という政治家の本来の仕事に焦点をあてるべきではなかろうか。
渋沢栄一は銀行業の発展、多くの企業の設立、社会福祉への貢献、倫理的資本主義の提唱など多くの功績を残している。
そして私たちはその歴史の上に立っている。
彼の実績によって今を生きる私たちが不利益を被っていることもあるかもしれない。しかし日本社会が発展したことも事実だ。
一部のみを切り取って批判する行為は決して賢い行為といえない。
情報をどう処理するか
情報に溢れている。油断すると溺れてしまう。
だからうまく処理しなければならない。
「新紙幣が発行された」
この事実をどのように受け止めるか。
事実からどのような「意味」を見出すか。
自分の頭を使って考えるクセをつけたい。
バーイ(o_o)ノ