「開示悟入」
※この記事は備忘録です。教員として忘れちゃいけないなと思ったので、将来の自分に向けて書いています。
※生徒指導は「この人の話、聞いてやってもいいかな」と思われてから。という話
僕が中学校教員として働き始めた、最初の学校でのお話。
ある日校長に
「あなたの授業は”開示悟入”ができているね」
と言われた。
本来「開示悟入」は仏教用語で、次のような意味がある。
「何のことやら??」という僕の表情を察し、
「『開』は『開く』。子どもたちが学習に向かうために、授業を受け入れるために、心を開かせなくちゃいけない。」
「『示』は『示す』。これからどんなことを学習するのか、どんなことを身につけるのか、目指す道を示さなきゃいけない。」
「『悟』は『理解する』。学習内容がわかることもそうだし、学習内容を自分のものとする段階。」
「『入』は『その道に入れる』。子どもたちに『自分にとって授業の内容、教科がどんなふうに役立つのか』を考えさせること」
と語ってくださった。
当時は教員としての経験も浅く、毎日授業(っぽいもの)を成立させるだけで精一杯であったので、そんな大層な授業をやったつもりもなかった。
「何かいいこと教えてもらった!」ぐらい。
もちろん今でもそんな授業ができる気はしない。
(白状すると、その時の授業は「生徒と遊んでる」ぐらいの感覚でやった、やっつけの授業だった。校長が見ているのに気づいた時も「やっべ!校長に見られてる」と焦ったのを覚えている。)
まずは”開かせて”から
あれから10年ちょっと教員という仕事を経験するなかで、「開示悟入」を強く意識するようになった。
生徒指導は”心を開かせてから”
言い換えると「この人の話を聞いてもいいかな」と思われてから。
子どもたちと学校で出会う以上、「先生」対「生徒」という関係性が生まれる。この関係性が教員を勘違いさせてしまう。
指導に従うのが当たり前だ。
指導に従わないなんてありえない、間違っている。
自分には指導力がある。
どのような意図や思いをもって働きかけたとしても、子どもに受け取る・咀嚼する意思がなければ意味をなさない。
だから、まずは”開かせて”から。
子どもに「この人の話を聞いてもいいかな。聞く価値がありそうだな。」と思われてからがスタートなのだ。
開かせるためには
では、開かせるためにはどうすればよいか。
様々な教育書や子育て本にいろいろ書いてあるはずなので、各自読んでもらって、自分が信じるものを実践してもらいたい。
と、ここで投げ出すのは無責任なので、これまでの僕の少ない経験から…
①こちらが先に心を開くこと
悩みや不安でも、好きなものでも、何でもいい。自分を開示しよう。
僕は、娘の習い事は何がいいか相談していたし、過去の失敗談も話していた。
②生徒の話を聴くこと
自分の話を聞いてもらいたかったら、まずは相手の話を聞こう。
相手の思いを受け止めよう。
生徒の話から知らない世界を知るのは楽しいよ。
おわりに
ある日知らない大人がやってきて、「今日からみなさんの先生です。言うこと聞いてね。」なんておかしな話。
目の前に「人」がいるなら、まずは関係を作らなきゃ。
教員は目の前の子どもをよりよく育てる・導くために働く人。
「先生」と呼ばれることで忘れないようにしましょう。
バーイ(o_o)ノ