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「建物(集まる場所)を持つ教会」と「建物を持たない教会」と
過去記事において、教会に行けない(行きたくない)多くのクリスチャンがいることや、教会に行きたいのだけど何らかのハードルがあって行けない人もたくさんいること、その現実について私自身が取り組んでいることを3回にわたって書いた。
私は建物を持つ地域教会でイエス・キリストの福音を聞き信仰を持ち、その教会員としてそこで持たれている主日礼拝を中心とした諸集会に出席して信仰を培ってきた。そして所属教団立の神学校で学び卒業し今に至っている。建物を持つ地域教会の存在意義を身をもって体験している者である。
一方で諸般の事情で教会に行けない、教会に行きたくないクリスチャン、教会に行きたいが行けない未信者の方に向けて、オンラインを利用したバイブルスタディーと礼拝を主宰している。
いわば建物を持つ地域教会の働きを尊重しつつ、オンラインでなければアプローチ出来ない層へ向けての建物を持たない教会の取組みを強化するに至ったということである。
教区主催ジュニアキャンプに参加してみた
さて、今日本では国全体で高齢化が驚くべきスピードで進んでいるのは周知のとおりだ。同様に日本の教会も高齢化が進んでおり、特に都会の教会では子供を対象にした日曜学校が開けない教会がどんどん増えている。現在私の所属教会でも私の2名の孫+1名くらいしか子供がいない。信徒の子弟は小学生の内はまだ親について教会に来てくれるが、他に同年代の友達がいないと教会は面白くないから、中学生になると部活や友達付き合いが優先されて教会を離れていく。これはもう一つの地域教会の努力だけで解決できない問題である。
そこでつい先日、夏休みに実施される所属教団の所属教区(比較的大きな教派なので地区ごとで教区に分かれている)主催のジュニアキャンプに小学生の孫2名の引率として参加してきた。ジュニアキャンプの対象は中学生から大学生までだったが、事前に問い合わせてみると小学生でも引率があれば参加可能とのこと。
そこには近隣の10くらいの教会から60名近くのジュニア世代と20数名の教職者を含む大人たちが引率・スタッフとして参加していた。
部屋割りは男女別で大人と同年代の子供たちがうまくミックスされており、孫女子(小5)は中1の女の子2名、孫男子(小3)は小5・小2の兄弟と同室。子供たちの適応能力は大したもので、同世代同志すぐに仲良く遊び始め一気に仲良くなる。そして毎日1回持たれる聖会(礼拝)、その合間にゲーム大会が挟まれみんなで盛り上がる時間があり、聖会の後は分かち合いの分科会が持たれる。聖会もジュニア世代らしくフルバンドでたてノリの賛美をして、その後にしっとりバラードの賛美をして、講師のメッセージもジュニア世代の感性に沿った話題を織り交ぜながら福音をダイレクトに投げ込む。
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楽しいし、わかりやすいし、同世代とたくさん仲良くなれるし、
「イエス様を信じます!」という決心をあらためて表明し、孫たちは大満足して3日間のジュニアキャンプから帰ってきた。
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私はというと、旧知の牧師たち、他教会の知り合いの兄弟姉妹たちと旧交を温め、お互いに顔は知っているがちゃんと話したことがなかった方々としっかり交流し祈り合ったりすることも出来て、こちらも大変恵まれたのであった。
バルナバ・オンラインエクレシアの礼拝で
一方、ジュニアキャンプの前々日、私が主宰するバルナバ・オンラインエクレシアの礼拝でのこと。
バイブルメッセージの後、短く分かち合いの時間を持っているのだが、ある未信者の方が、
「この場で少し話したいのですが…」
と発言を求めてこられた。
この方はあるアレルギー症状と戦っておられ、人が集まる場所に行けないという。公共交通機関にも乗ることができない。昔からスピリチュアルなものに興味があり、いわゆる霊感のようなものが強いタイプで、色々な宗教に興味を持ってきた。その中でもキリスト教に惹かれるものを感じ聖書を買い、YouTubeなどでキリスト教のメッセージや、聖書の解説を視聴する中でますます興味を持ったという。
そんな中、Xで私のオンラインバイブルスタディに参加している方と知り合い、バルナバ・オンラインエクレシアのオンライン礼拝を紹介されて、礼拝に参加するようになったのだ。
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「私は教会に行きたくても行けません。でも洗礼を受けたいんです。こんな私でも受けられるでしょうか?」
突然の告白であった。
私は尋ねた。
「イエス様をご自分の唯一の救い主として信じますか?」
「はい!」
皆さんがおられる中での即答であった。
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
バルナバ・オンラインエクレシアはイエス・キリストをかしらとし、私が集めたのではなく神が不思議な方法で一人ひとりを呼び集めて下さった建物を持たない有機的エクレシア(教会)である。
ここで真の神を礼拝しておられ、イエス・キリストを主と告白し信じたのだから救われる。
ハレルヤ‼️
それを御言葉を通してお伝えし、今その方と洗礼準備の学びを開始したところである。
どちらも必要
現在(2024年)はコロナ禍を経て、オンラインを用いたミニストリーが容易になった。だからなおさら
「教会に所属し、諸集会に出席しなければ健全なクリスチャンにはなりえない」
と決めつけることはとても乱暴である。
そもそも聖書にそんなことは書かれていないから。
しかしコロナ禍の最中にせっかく始めたオンライン礼拝を取りやめて、実参加を促す教会が増えたり、出席至上主義に回帰する教会の動きを耳にする。
かつては教会に行くしか聖書のメッセージを聞く、聖書を学ぶ、祈り合う、励まし合うといったことが出来なかったから、「教会に来なさい」という促しは当然のことであったし、確かに今でも建物を持つ地域教会(の集まり)でしか出来ない働きはある。それが先ほど紹介した教区のジュニアキャンプのような催しが良い事例である。私が20年ほど続けているゴスペルミュージックミニストリーもそうだろう。
しかし私が過去記事に書いたように、またバルナバ・オンラインエクレシアの礼拝で信仰告白された方のように、諸般の事情で教会に行けないクリスチャン、未信者、教会に行きたくないクリスチャンが多数存在している。その人たちにとって、建物を持つ地域教会に行かなくてもイエス・キリストと有機的に繋がることが出来る場は必要不可欠なのである。
その中には建物を持つ地域教会で牧師の言動、説教、人間関係などで躓いてしまい教会を離れた人たちも含まれる。
そして信仰心はあり、問題意識を持ち、リーダーシップがある人が自宅を開放したり、カフェなどで集まったり、オンラインで集まったりしてバイブルスタディ、祈祷会、礼拝をしている事例が増えている。地域教会は気付かないのか、気付いてはいても見ないようにしているかで、殆どの場合それらの人々は放置されているのだ。
そしてそういう人たちの多くは、地域教会を否定する。専業牧師の存在、献金、日曜日朝の礼拝、役員会、信徒会etc.
地域教会の何かに躓いたのだから否定したくなる気持ちはわかる。しかし建物を持つ地域教会も、建物を持たない教会も必要なのだ。双方を否定し合うこと自体不毛である。
それぞれがイエス・キリストをかしらとした有機的なエクレシア(教会=神が召し集められた人々の集まり)であるなら、お互いの足りなさを補完し合うべきである。
パウロのこの言葉を思い起こす。
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パウロは福音のためなら実に柔軟なのだ。ひとつの手法にこだわるようなことはしない。「福音のために、わたしはどんな事でもする」のである。
だから私は建物を持つ地域教会での働きをこれからも進めていくし、個人的なミニストリーとして建物を持たない教会、すなわちオンラインエクレシアやオンラインバイブルスタディの働きを進めていく。
どんな立場、状況に置かれた人であっても、唯一真の救い主イエス・キリストと出会い、イエス・キリストとの生きた関係を持ち続けることが出来るように。