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クリスチャンとしての社会人ライフ2(カイ・アルファセミナー)
☝表題記事のPart2である(最初の記事Part1はこちら)。
3.神学校での学びとその後
中央聖書神学校通信科の授業は本科の授業と同じで、内容が濃く専門的であった。私にはどれも興味深く、会社業務の合間や帰宅後など隙間時間をうまくやりくりしてむさぼるように授業を受け、レポートを書き、試験を受けた。
当時は色々な人に「仕事を普通にやりながらよくそんな勉強まで出来ますね…」と言われたものだ。
決して謙遜ではなく、私は全く勤勉な人間ではない。それが出来たのは、聖書があまりにも深く面白く、自分が知っていると思っていたことが壊されて再構築されていく、知らなかったことを知ることが面白かったからだと思う。
教会実習もあり、母教会以外の3教会に半年ずつ日曜日に派遣して頂き、それぞれの教会の実際を肌で体験し先生方から薫陶を受け、信徒の方々との交わりを通して多くの学びを重ねることが出来た。そして2015年卒業。それはひとえに生きて働いておられる聖霊の守りと導きよるものである。
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私は在学中に教団の教職として、伝道者としての召命を確信し、その歩みを始める決意をしていたのだが、家のローンがかなり残っている現実、家族の状況などから仕事を辞めて牧師専業で生きるには難しかった。それを所属教会の牧師から客観的に指摘され、神の御心はどこにおありなのかを真剣に祈った。実際には兼業で頑張っておられる先生方も身近にたくさんおられるし、そう励まして下さる先輩牧師もたくさんいたから、そのことも念頭に置きながら祈った。
そこで確信したのは、神の御心ならば開かれ、御心でなければ閉じられるということだった。そして神のご計画はどんな時でも最善ということだった。
結果として導かれたのは、教団の教職にはならずに、教会で与えられた奉仕を続け、また社会で働き続けるということであった。以前から担当していた成人向けバイブルスタディ、礼拝司会、諸集会でのメッセージなど担当し続けることとなったのである。
しかし2020年にコロナ禍が世界を席巻するまでは、それが本当に神の御心なのか確信は持てずにいた。せっかく学んだ知識や経験を牧師として生かすべきなのではないかと。
4.マーケットプレイス・ミニスターへの道
2020年~新型コロナウィルスの世界的な流行により、ビジネスの世界も教会も一変した。私の教会は主日礼拝は通常通り対面でやり続けたが、出席者は激減し、長年継続していたゴスペルミニストリーは中止を余儀なくされた。
一方、当時私は会社では経営管理部にいたので、間近に控えていた新入社員研修をどうすべきか頭を悩ませていた。更には翌年の新卒採用の説明会などもやらねばならなかった。そこで導入されたのがオンライン研修である。当時ZOOMなどのオンラインミーティングソフトはすでに存在していたが、会社も私も使った経験がなく、本当にそんなことが出来るのかと半信半疑だったが、他に方法がない。そこで一生懸命操作しながら使い方を覚えたものである。
結果で言えば、これを機にオンラインでの双方向コミュニケーションが当たり前の時代の幕開けとなったのである。
キリスト教会の活動にもこの流れがすぐにやってきたのは周知のとおりである。各教会もオンライン礼拝、オンライン祈祷会などを始めるようになり、その副産物として遠方に引っ越してしまった信徒や、様々な事情で日曜日には教会に行けなかった信徒が、リアルタイム、アーカイブなど臨機応変に集会を視聴できるようになった。
私はこの経験から一つの重要な気づきを得た。今までのミニストリーは、建物(器)としての「教会」に来てもらうことが前提だったということである。特に牧師・伝道者の働きの中心は建物(器)としての「教会」になっている。もちろん平日に信徒の訪問をしたりするだろうが、教会に来てもらうことが中心であり着地点である。しかも殆どの教会は日曜日午前中の礼拝が活動の中心であり、その礼拝を守れないとクリスチャンとしてどうなの?と思われ、自身でもそう信じ込んでいるクリスチャンが多い。
私たちクリスチャンはこんな誤解を持っていないだろうか。
1. 牧師・伝道者と信徒では役割が違う
2. 教会の働きは、教会堂という建物(部屋)に限定されている
3. 実生活の現場で日常生活の大半を過ごす信徒の役割は教会の牧師・伝道者を経済的にサポートすることである
社会は日曜日の午前に礼拝に行くことが前提に出来ていない。その日に働かないといけない人がたくさんいるし、その日じゃないと家族全員がそろわないという人もいる(家族全員が熱いクリスチャンならそのまま教会へ行くだろうが…)。そのような人に聖書はダメだしをしているだろうか。
イエス様の復活を記念して、後年日曜朝の礼拝が定着したが、初代教会の信徒たちは「いつでも」集まってパンを割き賛美を歌い礼拝していたし、聖書に「日曜日に礼拝せよ」とか、「しなければならない」という箇所はどこにもない。もちろん、日曜日に休みの勤め先が多いのが世界的にはスタンダードであるから、日曜日の礼拝を否定するものではないし、集まれるものならば集まって礼拝することは恵みである。
ちなみにイエス様は社会的には大工の息子としてお生まれになった。当然生まれながらの聖職者として来られたのではなかった。そして弟子としてお召しになった12人は皆社会で働いている者たちだった。だからイエス様のたとえ話は、労働の現場に密接しているものばかりである。
建築(マタイ7:24~27 岩の上と砂の上に建てた家)、ぶどう酒づくり(古い革袋新しい革袋)、農作業(マルコ4:3~20 種まきのたとえ)、牧畜(マタイ18:12~14 99匹の羊と1匹の迷った羊)、労働と賃金(マタイ20:1~16 ぶどう園の労働者)などなど。
福音書の記者もマタイは税務署員、マルコは多くの富と財産を有する青年、ルカは医師、ヨハネは漁師だった。多くの書簡を残したパウロはテント(天幕作り)職人である。
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使徒の働きから初代教会を支えた人々を見ると、紫布商人ルデヤ、下着デザイナー&製造のドルカス、パウロと同じテント職人のアクラ・プリスキラ夫妻など枚挙にいとまがないし、彼らは福音の伝達者として自分が置かれたマーケットプレイス(実生活の現場)で働いているのである。
要するに、イエス様は社会の中で働くことを自らが実践され、社会の中で働く一人一人を理解されてその中に福音を届けられたということである。そして社会の構成員である私たち一人一人をご自身の弟子として招いておられるのである。
私たちはマーケットプレイス・ミニスター(生活の現場での伝道者)なのだ。(続く)