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クリスチャンとしての社会人ライフ3 完結編(カイ・アルファセミナー)

表題記事のPart3 完結編である。
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Part2はこちら。☟

5.マーケットプレイス・ミニスターになる

 教会という原語はἐκκλησία(エクレシア)である。
 神の呼びかけで人が集められる集まりを指す。建物としての教会を指すのではない。ここはしっかりと認識する必要がある。

1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

エペソ人への手紙1:22~23【新改訳改訂第3版】

 エクレシアはイエス様ご自身が頭であるイエス様のからだであるから、イエス様の命が満ちあふれている有機的な共同体である。
 私たちクリスチャンの全てがフルタイムの献身者として召されるのだろうか?そうではない。殆どの人が現在社会で働いているか、学生ならば企業や団体などに就職を、或いは起業、アーティスト、色々選択肢はあるとは思うが、社会で働くことを選択しているのではないだろうか。
 それはイエス様の御心に適う良い選択である。
 社会には教会という建物は敷居が高くて行く気になれない人、家族的事情で日曜日に時間を作れない人、シフト勤務で日曜日に休めない人がごまんといる。そこにフルタイムの牧師、伝道者は現実的に入っていくことはほぼ出来ないと言っていい。出来るのはそこに遣わされている私たちなのだ。
 伝道の方法がわからない、御言葉も深く知らない、もっと世の中の楽しみを味わいたいetc.
 これらの言い訳は、私自身が体験してきたのでよくわかる。
 しかしどんなにかろうじてであってもいい。イエス様にとどまり続けるならば、やがて豊かな実が結ぶのである。それはイエス様の約束である。

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

ヨハネによる福音書15:5【新改訳改訂第3版】

 イエス様から離れては何も出来ないが、聖霊の働きによって彼にとどまり続けるなら、彼の愛の樹液によって多くの実を結ぶ。その実を「御霊の実」という。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

ガラテヤ人への手紙5:22~23【新改訳改訂第3版】

 あなたがイエス様の救いを喜んでいる。御言葉に養われ平安に満ちているならば、これらは日々の仕事の中でにじみ出てくるのである。少しずつ御霊の実が大きくなっていくのである。そして語るべきこと、為すべきことは聖霊が教えて下さる。

6.野良クリスチャンと潜在的求道者へ

 クリスチャンであっても教会内の人間関係や牧師との関係で教会に行きたくない人、行けなくなった人、いわゆる「教会に躓いた」という人がたくさんいる。こういう人は、わざわざ教会の中の人に理由を言わない。そして静かに去っていく。こうして特定の教会に属さなくなったクリスチャンを「野良クリスチャン」というらしい。
 日本の教会に人が増えない理由のひとつは、教会からいつの間にか消えていった「野良クリスチャン」たちに手を伸ばせないからだと私は思っている。来る者は大歓迎するが去る者は追わない、というか追えない。私はコロナ禍中にSNSの中にそのようなクリスチャンが非常に多いことに気づいた。教会に躓いたがイエス様に躓いたわけではない。だから一人で信仰を守ろうとするが、それは難しい。だからXなどのSNSでクリスチャンの繋がりを求めているのだ。
 コロナ禍の最中にSNSで、

「御言葉をちゃんと正しく学びたいけど神学校に行く伝手もお金もない。どうしたらいいのだろう?」

 そんなポストを見かけた。その方はコロナ以前から繋がっていた方だったので、「確かにそうだよなぁ」と共感し、もし私で役に立てることがあれば、とリプライしたことを契機にオンラインでのバイブルスタディが始まった。
 その方が同じような悩みを持っている仲間に声をかけ、教会に行っていないクリスチャン、行っていても御言葉に渇いているクリスチャンが4~5人集まったのだった。
 そのメンバーの一人が、自宅を開放して手作り料理をみんなで囲みながら聖書のメッセージを聞くという家庭集会を月2回程度既にやっておられた。その方も教会に躓いた方だったが、イエス様を信じる気持ちは熱い方であった。その集まりは、友達の家に遊びに行く感覚でメンバーシップもないのでとても敷居が低く、まさに初代教会のような集まりであると思った。そこにはクリスチャンではない彼女の友人・知人も気軽に参加していた。これは日曜日の教会の礼拝に繋げるためのものではなく、それ自体がエクレシアであり、そこから複数の決心者が起こされていたのだった。
 またこの方を通じて、熱心に教会の奉仕者として仕えていながら教会分裂という問題に傷つき教会を離れざるを得なかった方と知り合った。この方はとある地方都市在住で、他に代わる教会の選択肢もないような地区であることから、悩み祈った末、オンライン礼拝を個人的に始めのだった。彼女は自身のブログでこのオンライン礼拝のことを告知し、それを知った方が数人集められたが、やはりそれは教会に行っていない野良クリスチャン、キリスト教に興味はあるが教会に行くには勇気も伝手もないというノンクリスチャンたちだった。
 その家庭集会にもオンライン礼拝にも参加させて頂いたが、そこにはイエス様がおられ、聖霊の臨在があった。そこはイエス様がかしらの共同体・エクレシアであった。
 私はこれらのことを経験、確認したうえで感銘を受け、また神の召しを感じてバルナバ・オンラインエクレシアというミニストリーを昨年の12月からスタートするように導かれた。そして現在月2回、平日と土曜日の夜に礼拝をささげている。

 それをスタートさせるにあたり、先にスタートしていたオンラインバイブルスタディーのメンバー、私の教会のメンバーで何らかの事情で礼拝に来れていない人、ゴスペルミニストリーで知り合って教会から離れたり行けていないクリスチャン、職場の同僚などに趣旨を説明していった。さらにその人たちが知り合いに声をかけたりして、10人くらいの野良クリスチャンやノンクリスチャンが集められ、8月には何と親子3名が礼拝の中で信仰決心をして受洗へと導かれた。その方(お母さん)は、とある疾患があって屋内に人が集まる場所には行けないという事情がある方で、オンラインで、しかも建物がないエクレシアだったら自分も信仰生活が送れるかと思ったと証しして下さった。

7.結び

 オンラインバイブルスタディーもバルナバ・オンラインエクレシアも中央福音教会としてではなく私個人が召されたミニストリーである。
 しかし中央福音教会という建物のある地域教会の働きを軽視しているわけではない。重視している。
 礼拝の奉仕をし、従来から継続している成人向けバイブルスタディをハイブリッドで日曜朝の礼拝前に毎週、今年からゴスペルミニストリーを再開し、月1回のリハーサルで伝道メッセージを担当し福音を伝えている。
 これらの働きは、教団所属の牧師になっていたら出来ていなかったのではないかと思っている。コロナ前まではそれが腑に落ちていなかったのだが、今は神がこのような働きに召して下さったのだと確信することが出来ている。主のご計画は人知を超えて素晴らしく最善である。
 神は地域教会という場所に限定した働きだけではなく、クリスチャンそれぞれが置かれたマーケットプレイス(生活の場)においてその人を通して働かれるのである。 
 地域教会でないと出来ない働きがあり、そこに導かれることで救われる魂がある。
 しかし地域教会からは漏れてしまった、或いは行くことが出来ない魂がある。建物を持たない有機的教会はそういう魂の受け皿である。
 どちらが良い・悪いではなく、優れている・劣っているでもなく、同じイエス様をかしらとする体として補完し合えるのだ。
 あなたも置かれた場所で聖霊の満たしを求め、主に用いられる器として輝いていただきたい。
 あなたも、私も、マーケットプレイス・ミニスターである。(終わり)

講演当日の様子(2024.10.5カイアルファ・センター)



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