見出し画像

とうきび畑でつかまえて~4、北海道の中心で、愛を叫ぶ③

   ○

 怒涛の三連休を終え、ラベンダー畑の美しさがピークを迎えた。
 混み具合は連休ほどではないが、毎日たくさんの観光客が押し寄せる。はじめは辛いと思っていた十二時間勤務も、次第に慣れてしまうのが人間の恐ろしいところだった。
「和奏さん、ソフトクリームください」
 昼食のお弁当を食べ終え、息吹は売店ハマナスに顔を出す。夏日が続き、休憩中のソフトクリームが習慣になってしまっていた。
 和奏が鮮やかな手つきでラベンダーソフトを巻く。外の暑さですぐに溶けてしまうそれを、息吹はあわてて口に含んだ。
「いま、その姿が画になってるよ。今日は天気がいいから、ラベンダー畑が綺麗に見える」
 指摘され、息吹はラベンダー畑を振り向く。ミル・フルール富良野の象徴でもある一面のラベンダー畑。薄紫色の海原が、太陽の光を受けやわらかに波打っていた。
「……綺麗」
「この時期は毎日が絶景だよ。ラベンダー畑を見ながら働けるなんて、本当に幸せ」
 一般的に知られるラベンダーは蕾の状態であり、それが開くと小さく可憐な花が開く。そばで見れば愛らしい姿ではあるが、花が咲くと次第に色が褪せていくため、紫の海原を楽しめる期間は短かった。
 早咲きの畑は刈り取りが終わり、加工がはじまっていた。敷地の外れにある蒸留所から、オイルを精製する香りが漂ってくる。ポプリやアロマオイルで嗅ぎ慣れたラベンダーの香りと違い、草木の混じった青臭い香りがした。
「そういえば、こないだ着てた浴衣って札幌から持ってきたの?」
「あれは……」
 和奏にはいまだ、稲瀬家とのことを話せていない。
「今月末のへそ祭り、みんなで浴衣着て行ったら面白そうだなって思って」
 七月の富良野地方はイベントが盛りだくさんだ。各地で夏祭りが開催され、みな疲労困憊の身体をおして遊び歩いている。七月二十八日と二十九日に富良野市で開催される北海へそ祭りに、和奏とつかさの三人で行く約束をしていた。
「あの浴衣、借り物なんです。もう返しちゃって」
「まあ、誰から借りたのかは聞かないであげるよ」
 息吹がミルフルールとは違う人間関係を築いているのを、和奏は気づいているようだ。しかしそれは彼女も同様であり、たまにひとりでどこかに出かけることがある。共同生活で溜まるストレスを、外の世界で発散するのはみなやることらしい。
「本当に私たちと一緒でいいの? 誰かほかに約束してない?」
「大丈夫です。花火大会の時、みんなでまわってるのを見ていいなって思ってたから、誘ってもらえて嬉しいです」
 夏祭りのあの日以来、彼とは会っていない。
 花火が終わった後、彼と稲瀬家に戻った。借りた浴衣を返さなければならなかった。
 そして、穂高の部屋に泊まった。
 お酒の飲みすぎか、眠りが浅くすぐに目が覚めた。空が白み始めていたが、みな祭りの疲れが残っていたのか、家の中はしんと静まり返っていた。
 穂高が眠るベッドを抜け出し、息吹はそのまま稲瀬家をあとにした。
 置手紙など気の利いたものは残していない。寮に戻ってようやく深い眠りに落ちた。昼頃になってようやく目が覚め、休日で良かったと二日酔いの頭で思った。
『ちゃんと帰れた?』
 スマートフォンには穂高から淡白なメッセージが届いていた。
『浴衣のお礼、トワさんに伝えておいて』
 息吹の返信はそれだけだったが、彼はそれ以上深く追及しなかった。そもそも、穂高の部屋に泊まったということ自体、他の家族に知られたら面倒なことになっていただろう。家族が寝静まるうちに帰った息吹の行動は正しく、おそらく誰も、あの夜のことは気づいていない。
 休み明けからまた六連勤が始まり、その忙しさに帰宅するなり泥のように眠っていた。こちらからメッセージを送る余裕もなく、穂高から連絡が来ることもなかった。
 あの夜のことを、どう整理したらよいかわからない。
 酔った勢い? 一時の気の迷い? 自分もひどく酔っていたし、穂高の若さならそういうことが起きても仕方ない。
 ――結婚生活には、体の相性も大事だから
 苦い思い出がよみがえる。ソフトクリームのコーンを口に押し込み、息吹は音を立てて咀嚼した。
 年上の自分が割り切ればいいこと。大人の恋愛にはこんなこといくらでもある。
「……今年の夏は、ミル・フルールのみんなとたくさん遊べたらいいな」
 穂高とは、もう会うことはないかもしれない。


 七月末に開催される北海へそ祭りは、富良野市が北海道の中心部――へそにあることにちなんで開催されるお祭りだ。へそ神社なる観光スポットやへそ饅頭というお土産もあり、富良野市のゆるキャラである『へそ丸』はへそ踊りの格好を模していた。
 近隣の町でイベントがあると観光客も増えるため、ミル・フルールも営業時間が延長になる。着替える時間もなく、仕事終わりにまっすぐ会場に向かった。
「リゾバって寮費がタダだからお金貯まると思ってたけど、富良野は遊び歩いちゃってだめだね。散財ばっかりしてむしろ赤字かも」
 つかさは北海道にマイカーを持ってきており、休みのたびに道内各地をドライブしていた。愛車は軽自動車だが、ボックスタイプのため三人乗っても十分な広さがあった。
 へそ祭りは富良野駅近くの新相生(しんあいおい)通り商店街で行われる。駅の裏手にある駐車場に車を停めると、会場までの道をたくさんの人が歩いていた。歩道橋を渡るうちに日の入りの時刻を迎え、東の空が藍色のカーテンをおろしはじめる。
 祭り会場は道路を封鎖し、色とりどりの提灯が空を飾っていた。鉄骨で組まれた特設ステージが司会進行を担い、特大の音響設備からチーム紹介のアナウンスが流れる。すでに踊りが始まっているのか、歩道にできた人垣で祭りの様子が見えなかった。

 ハアー まんなか まなかの どまんなかヨ
 おらがふらので 見せたいものは
 蝦夷のまんなかの 出べそ石
 イイジャナイカ イイジャナイカ イイジャナイカ

 歌声こそ聞こえるが、人混みにもまれ踊る姿が見えない。背伸びをすると踊り子の巨大な傘が見え、目の前にいると知った。
 三人で手分けして人垣の隙間を見つけ、無理やり身体をねじ込んだ。

 ハアー まんなか まなかの どまんなかヨ
 ヘソのでかい娘を 嫁御にしたら
 ヘソクリ上手で 蔵がたつ
 イイジャナイカ イイジャナイカ イイジャナイカ

 へそ踊りはその名の通り、お腹に人の顔を描いて踊る図腹踊りだった。巨大な傘で頭を隠し、腰の位置に法被を着ると『へそ丸』と同じ姿になる。先頭の人が持つプラカードには参加団体の名前が書かれ、チームごとに揃いの衣装に身を包んでいた。
 信用金庫や商工会などの企業は王道の格好をしているが、劇団やダンスサークルのチームは仮装に重きを置いているらしい。男性は果敢にお腹を出しているが、女性はTシャツの中に詰め物をして顔を描くか、浴衣を着て踊っていた。

 ハアー まんなか まなかの どまんなかヨ
 十勝のおヘソが けむりを吐けば
 かわいいあの娘が 樽たたく
 イイジャナイカ イイジャナイカ イイジャナイカ

 封鎖した直線道路を時計回りに踊り、観客が声援を送る。北海へそ音頭は特設ステージ上の生演奏だった。歌声もすべて本物であり、子供から大人まで順番にマイクを握っている。
 踊り子の手は傘で塞がってしまうため、へそ踊りは主に足を使う。軽く飛び跳ねながら歩き、その際に足先を外に振った。曲にあわせて「そーれ、そーれ、それそれそーれ」と声をあげる。看護学校の女子チームはかけ声も可愛らしく、自衛隊チームは全力投球の野太い雄たけびが上がっていた。

 ハアー まんなか まなかの どまんなかヨ
 ヘソの曲った 世界の人も
ここで踊れば まるくなる
 イイジャナイカ イイジャナイカ イイジャナイカ

 歩道の縁石を椅子がわりに座ると、目の前を練り歩く踊り子の迫力が増した。ドーランで描かれた顔はひとりひとり表情が違い、アニメ風の可愛い表情もあれば、歌舞伎よろしく赤い隈取りをした圧巻の表情もある。
「へそ踊りって、ひきしまったお腹よりポッコリしてた方が見栄えがいいよね」
「そうなの。いつもなら割れた腹筋のほうがかっこいいと思うのに、これだけはお腹が出てる人のほうが魅力的だよね」
 つかさと和奏は男性の肉体をまじまじと観察していた。彼女たちの言うとおり、お腹の肉付きが良いと様になって見えるのが不思議だ。多少のぽっちゃり具合では物足りなく、生活習慣を注意されるようなメタボ腹にばかり目が行ってしまう。
 当日参加の観光客チームが通り過ぎ、次に回ってきたのは農協青年部だった。こちらは伝統的なへそ踊りスタイルで、傘も法被も年季が入っている。傘を目深にかぶっているため、踊り子の顔がまったく見えない。
「ねえねえ、あのひと超イケメンじゃない?」
 つかさが指差した先に、立派なお腹をした踊り子が迫ってきた。
 大きく突き出したお腹はおろか、豊満な胸にまで顔が描いてある。一歩進むごとに肉が揺れ、歌舞伎の隈取りを模した顔は誰よりも迫力があった。
 そーれ、そーれ、それそれそーれ。そのかけ声も負けず劣らず大きく、会場の誰もが彼に釘付けになっている。隣で踊る男性が引き締まった体をしているため、よけいに巨体が際立っていた。

 ハアー まんなか まなかの どまんなかヨ
 西の徳平(とくへい) 左に千幹(ちから)
ヘソで拓いた おらがまち
 イイジャナイカ イイジャナイカ イイジャナイカ

 ユニークな歌詞は五番まであり、歌い切るとまたはじめに戻る。一時間休みなく踊り続けるのも大変だが、ステージで歌う人も声が嗄れていた。
 祭りも後半になると踊り子たちにも疲れが見えたが、活気に満ち溢れた一時間が終わると会場からあたたかい拍手があがった。
「……さ、終わったし腹ごしらえに行こうか」
 真っ先に腰を上げたのは和奏だった。彼女は昨年も見ているためあっさりしているが、それにつかさが抗議の声をあげる。
「やだ、さっきのイケメンと写真撮りたい!」
 MVPチームの発表があり、各チームが記念撮影をしていた。一目散に駆け出すつかさを追い道路に入ると、熱気の余韻が残り、気温が高く感じられた。
 イケメン踊り子にはたくさんのカメラが群がっており、人だかりですぐにわかった。つかさは順番待ちの列に並び、和奏もそれに続く。息吹は並ばず、カメラマンとしてスマートフォンの準備をした。
 ロックを外すと、求人サイトのメールマガジンが届いていた。配信を停止していなかったため、毎日決まった時間に仕事の案内が届く。それらを適当に開封し、息吹はひとつ、ため息をこぼした。
 穂高からの連絡を待っている自分がいた。
 こちらからは送らないと決めている。向こうから連絡が来なければ、もう関わることもない。
 しかし、心の奥底では彼に連絡したくなる自分がいた。
「――息吹、写真撮って!」
 立ち尽くす息吹を、つかさが呼んだ。
 イケメン踊り子は写真に慣れているのか、カメラを構えるとすぐにポーズをとった。両手に花を抱え、お腹の顔もこころなしか緩んでいるように見える。一枚目は傘を目深にかぶっていたが、二枚目になるとそれをずらして素顔を見せた。
 その顔に見覚えがあった。写真を撮り終え、つかさと和奏が挨拶をする。
「ありがとうございました。豊さん、やっぱりイケメンですね」
「毎年、この日のために腹を育ててるからな」
 そう快活に笑ったのは、花火大会で会った穂高の父親だ。
「青年部も若い者に任せた方がいいんだろうけど、祭りだけはどうしても参加したくてな」
「親父はただ若い子にきゃーきゃー言われたいだけだろ」
 その巨体の後ろから、穂高が姿を見せた。
 彼も祭りに参加していたらしい。傘を脇に抱え、むき出しになった上半身は無駄な脂肪がなく引き締まっていた。引き立て役になっていた踊り子は彼だったのだ。
「カメラ貸して。みんなで撮ってあげるよ」
 撮影係に声をかけ、彼は息吹に気がついた。
「息吹、来てたんだ」
「うん。和奏さんたちに誘われて」
 その返しに違和感はないか。自分はちゃんと笑えているだろうか。息吹は心の中でそう思うが、穂高はいつもと変わらなかった。
「全然連絡できなくてごめん。へそ祭りの準備で忙しくて」
「穂高が出てると思わなかった。顔が隠れると誰かわからないし」
「この祭りのメインは腹だからな」
 彼は自分のお腹を叩いてみせるが、日頃農業で培った筋肉がありありと刻まれている。描かれた顔は父親にあわせて歌舞伎調の二枚目役だった。
「向こうに並んで。三人で撮ってあげるから」
「ありがとう」
 スマートフォンを渡す瞬間、指先が触れる。それに胸が鳴った。
 シャッターは二回。写真撮影が終わると、穂高が「ちゃんと撮れてるか確認して」と返す。息吹は何食わぬ顔でそれを受け取り、写真を確認した。
「暗いから心配だったけど、大丈夫だな」
 穂高が長身を屈めて写真を覗きこむ。すぐそばに彼の存在を感じ、胸の鼓動が高まる。
「それ、よかったら送ってよ。親父も喜ぶだろうから」
 照明の明かりに照らされた彼の身体は、筋肉の陰影が際立ちまるで彫刻のようだった。
 自分は、その厚い胸板に抱かれた。それをはっきりと思い出してしまった。
「息吹、聞いてる?」
 顔を覗きこまれ、思わず一歩、後ずさる。
「うん、わかった、写真ね」
 明らかに挙動不審だ。彼の顔を見ることができない。
「和奏さんたちと出店まわるから、じゃあね」
 動揺をおさえることができないまま、息吹は彼から離れた。
 穂高はそれに呆気にとられたような顔をしたが、あえて何か言うことはなかった。
「わかった。祭り、楽しんでな」
 父親に写真を頼む人があらわれ、穂高はその人のカメラ役を申し出た。

「――だめだ、料理がおいしすぎて食べすぎちゃった」
 帰り道、ハンドルを握った和奏が苦しそうな声をあげた。
 富良野市の人気店が集結した出店は二十一時まで営業し、誘惑に負けて片っ端から買ってしまった。はち切れんばかりのお腹とは裏腹に、財布の中はすっからかんだ。
「和奏さん、お酒飲んでもよかったんですよ? わたしはいつも飲まないんだから」
「いいのいいの。ペーパーの息吹に運転されたら、怖くて酔いも醒めちゃうし」
 行きはつかさが運転したが、彼女は祭り会場で提供される富良野ワインを羨ましそうに見つめていた。それに和奏が運転を代わると申し出て今に至る。後部座席では酔いつぶれたつかさが返事ともつかない声をあげた。
 市街地を抜け、窓の外はのどかな農地が広がっている。すれ違う車も少なく、まばらな外灯と月明かりがあるだけだった。鱗雲が空を覆い、へそ踊りのお腹のような半月が見え隠れしている。闇夜を照らす月は明るく、おぼろの雲が夜空に薄絹のベールをかけているようだった。
「北海道はいいね。景色は綺麗だしご飯はおいしいしドライブも楽しいし」
「そう言ってもらえると、道民としてとても嬉しいです」
「そろそろ再就職しなきゃと思うんだけど、ミル・フルールの仕事が楽しくて今年もリピートしちゃった。帰ったら就活頑張らないと」
「和奏さんは、ミル・フルールの社員になろうとは思わないんですか?」
 ミル・フルール富良野には雇用形態が三種類あり、通年雇用の正社員、半年勤務の契約社員、息吹らアルバイトスタッフとそれぞれ待遇が違う。
 売店ラベンダーの店長である黛も、もとは息吹らと同じアルバイトスタッフだった。ミル・フルールではスタッフの働きぶりを見て社員にスカウトするが、最繁忙期はほぼ休みなしで働くため断る人が多いのが現状だ。リピーターの和奏が社員になれば戦力になるのでは、と息吹は思う。
「ここでの仕事は、夏だけの楽しい思い出だけにしたいな。社員になったら、嫌なこともたくさん見えてくるだろうし」
「その気持ちは、よくわかります」
「富良野で彼氏ができたりすればまた変わってくるのかもしれないけどね。私にはLLのエの字ものないわ」
 ラベンダー・ラブことLL。その言葉を聞いて、息吹はちらりと後部座席を覗く。つかさは深い眠りに落ちたのか、規則正しい寝息が聞こえるだけだった。
「和奏さんは、誰かに声をかけられたりしなかったんですか?」
「ミル・フルールではないけど、昔、OLだった時に似たようなことがあったよ。そしてそれをずっと後悔してる」
 和奏はハンドルを握る手を緩め、姿勢を崩した。
「私、こう見えて大学で遺伝子の研究をしてたんだよね。院まで出たけど、全然関係ない旅行会社に就職したんだ。昔は研究に没頭して身なりもどうでもよかったけど、OLになって小綺麗にしたら、男子社員からモテるようになってさ」
 車内はローカルラジオが流れるのみ。舗装された道は凹凸も少なく、タイヤがなめらかにアスファルトの上を走り続けている。
「向こうから言い寄ってきたはずなのに、すぐ別れることが多くて。そのたび女友達に泣きつくわSNSに病んだ投稿するわで、あれはほんとうに痛いメンヘラ女子だったな」
「いまの和奏さんからは想像がつかないです」
 にわかには信じがたい。彼女も自覚しているのか、苦笑まじりに髪をかきあげた。
「ある時さ、大学の講義で受けた男女の脳の違いを思い出したの。男は自分の種を残すために本能的に多くの女性を求める。一度セックスをしたら興味を失って、新しい女に興味が移るって。いまの世の中、そんなことする男はクズに間違いないけど」
 今日の彼女は一滴もお酒を飲んでいないはずだが、いままでで一番、話にキレがあった。
「男性とは逆に、女性は一度セックスをすると、どうでもいいと思っていた人でも少なからず執着するんだって。自分がその人の子供を宿した時に、それを守ってくれる人として認識する。だからその執着を恋心だと勘違いしてしまう」
「……勘違い?」
「男はセックスすると相手の興味を失う。逆に女は相手に執着する。だから男女のすれ違いは起こるわけ。それを思い出したらいままでの自分がばかばかしくなってね。会社の人間関係もドロドロしちゃったから、思い切って退職したの」
 世の恋愛のもつれはそれだったのか。鱗雲が切れて月がぽっかりと浮かんだように、頭の中の霧が晴れた。
――結婚生活には、身体の相性も大事だから
 あの時に傷ついたはずの、恋心だと思っていた気持ち。はたして自分は、本当に彼のことが好きだったのだろうか。
 相手への好感は抱いていた。しかし、彼への気持ちが深くなったのは、身体の関係をもった後のことではないだろうか。
 村崎と彼が付き合い始めた時期を息吹は知らない。けれど、付き合った時期が重なっていたのは間違いないだろう。彼は息吹との身体の相性を確かめ、そこで興味を失った。おそらく村崎は、肉体関係のトラブルも用心していたに違いない。
 あの苦い思い出は、息吹にも原因があったのだ。
「……和奏さん、トイレ」
 後部座席で眠っていたはずの和奏が、突然目を覚ました。
「コンビニはまだ先だよ。我慢して」
「無理。吐きそう」
 つかさの宣言に和奏は急ブレーキを踏んだ。
 慌ただしく車を降り、草むらへと駆け込んでいくつかさ。その介抱に向かう和奏。息吹は自動販売機を見つけ、水を買いに走った。
 水田から蛙の合唱が聞こえる。七月も末となり、早くも秋の虫が鳴きはじめていた。
 パーカーのポケットに小銭が入っている。ミネラルウォーターを買い、何気なくスマートフォンを見る。
 穂高からのメッセージが届いていた。
『明日のへそ祭り、おれたちのチームは参加しないんだ。一緒に見に行かない?』
 その連絡を、嬉しいと思ってしまう自分がいる。
 はたしてこれも、執着が引き起こす気持ちなのだろうか。
 息吹が既読をつけたことに気づいたのか、再度彼からメッセージが届いた。
『ずっと連絡しなくてごめん』
 その言葉に揺れ動くこの気持ちも、ただの勘違いなのだろうか。
 それとも。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

いいなと思ったら応援しよう!