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自分のパンツは自分で洗え〜1、誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ②


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 私が小説を書くことに対して、かつて恋愛関係にあった男性の反応を思い返してみる。

 新人賞投稿時代、最終選考に残り喜びに震える私を見て「なにニヤニヤしてんだ気持ち悪い」と一蹴した元彼。本命の新人賞の〆切が迫り、この期間は小説に集中したいと伝えると「俺と小説どっちが大事なの?」と言われた。

 同じく新人賞投稿時代。最終選考に残る頻度が上がり、俄然頑張る私が付き合っていたのは自称経営コンサルタント。ある日、仕事について些細なことで言い合いになったとき「お前だって作家になれるなら枕営業だってなんだってするだろう」と言われたが、そもそも枕営業でできる小説家デビューとはなにか。

 自称映画監督の男性とは恋人の関係にはならなかったが、小説家を目指す私に嬉々として創作論をアドバイスをした。新人賞の選考を通過すると選評をもらえるが、その内容について話す私に「俺もあたためてるネタを小説にしたいんだけど、書いたらどこで評価してもらえるの? いや、新人賞に投稿して、万一受賞しても困るじゃん?」と自信満々に言った。

 なぜ、小説を書くという行為に対してネガティブな反応をされることが多いのか。いや、若い頃の自分に男を見る目がなかったのもあるのだが。

 27歳で小説家としてデビューし、紆余曲折ありながらも5冊の単著を出版にこぎつけた身からすると、会社員と小説家の兼業は可能だ。

 原稿を書く時間の確保は新人賞投稿時代から変わらない。若い頃は無理も利くためエナジードリンクに頼る日々を送っていたこともあるが、休息を確保しなければ作品のクオリティが落ちることを学んでからは生活リズムを崩さないよう気をつけるようになった。

 深夜に筆が乗ったときや、〆切前になると短時間睡眠で出勤することはある。自炊をあきらめコンビニ弁当を常食し、掃除機もろくにかけない部屋で生活した結果「明日のパンツがない!」と叫ぶような日もあるが、ひとり暮らしで自分の面倒を見るだけならば案外どうにでもなるものだった。

 しかし、出産や家事育児が加わると、明日のパンツの心配どころではない生活が待っているのだろう。

 私自身、両親が共働きの家庭で育った。当時は学童保育というものもなく、小学校が終わると首から提げた鍵で家に入り、買い置きの中華料理の素を使って八宝菜やエビチリを作りながら家族の帰りを待っていた。休日に掃除洗濯をするのも当たり前、母親に頼まれて特売の品を買いに自転車で出かけることもあったが、早いうちに生活力が身についたのはこの環境あってこそのことだと思う。

 父は仕事が終わるのも遅く、帰宅早々お酒を飲んでは母に小言を言われていた。家のことをするのは当然母親の仕事であり、深夜、仕事のストレスが溜まった父が母に向かって怒鳴っていたことは今でも忘れられない。 




「……娘さんが家事をしてくれて、お母様はとても助かっていたでしょうね」

「どうですかね。何もしなかったら結局叱られるのは自分だったので」

 結婚相談所に入会すると、最初に担当仲人との対話の時間がある。生育歴、家庭環境、結婚観や理想の家庭像。雑談を交えながら人柄を知り、仲人が魅力的な紹介文を書くというもの。私が小説家と知った仲人は自分で書いてはと遠慮したが、せっかくなのですべてお任せにしていた。

 結局、入会した相談所はT社とは別のところだった。

 E社は料金プランなどの諸費用がT社とほとんど変わらなかった。T社はオプション料金になっていた各種のサポートが、E社ではあらかじめ月会費に含まれており、仲人の手厚いサポートを望む私にはE社のほうが適していると思った。

 担当になった仲人は、50代と母親に近い年齢だった。結婚出産子育てをすべて経験しているため、二足のわらじ生活と家事育児の両立の悩みに対して「田丸さんがひとりでこなしたら絶対倒れますね」と即答した頼もしさがある。

 相談所のオフィスが札幌市中心部、とくにJR札幌駅近くに集結しているのは、道内各地で活動する会員のアクセスが良いからだろうか。パーテーションで区切られたブースのつくりはE社と同じであり、私は今後、このブース内で様々な気持ちを吐露していくことになる。

「結婚相談所に入会されたこと、お母様はご存じなんですか?」

「そうですね、戸籍抄本を送ってもらうために連絡したので」

 結婚相談所に入会するにあたり、提出が必要な書類がたくさんあった。マッチングアプリでも保険証や運転免許証などの本人確認書類は必要だったが、相談所は源泉徴収など収入を証明する書類、最終学歴を証明する卒業証明書、医師や弁護士などは資格証明書を提出するなど経歴を詐称できないよう徹底されていた。

   独身証明書は本籍地のある自治体に連絡して取り寄せなければならないが、窓口の人に結婚相談所の登録がバレると恥ずかしい。そんな人のために、戸籍抄本でも代用可能だった。

『もしもし、お母さん。戸籍抄本を送って欲しいんだけど』

『わかったよ、近々役場に行く予定だからその時にもらっておくわ』

『ありがとう。やっぱり私、結婚相談所に登録することにしたから』

 地元を離れて10年。帰省する頻度こそ減ったものの、母親とは毎年一緒に旅行をする仲だ。つい先日、旅行先でお酒を飲みながら結婚についての悩みを話したばかりだった。

『別にいまの時代、無理に結婚する必要もないでしょう』

 母はいつも、娘が独身であることに一定の理解を示していた。

 北海道の片田舎にある小さな港町では、結婚に対する価値観は昭和の臭いが色濃く残っていた。私は高校を卒業して間もない頃から、親戚や周囲に彼氏はいないのか結婚はまだかとしつこく言われるようになった。結婚して子供を産んで一人前、それが当たり前の世界。それにうんざりして地元を離れ、たまの帰省で顔見知りに会うと「いい歳して結婚もしないで」と小言を言われた。その時はまだ20代だった。

 父親もまた、良い人はいないのか嫁には行かないのかと聞いてくる側。娘が嫁に行けば寂しがるだろうが、先に産まれた孫たちを溺愛している。「もう孫もいるんだから私はいいでしょ」と言っても無駄だった。

   あのまま地元を離れなければ周囲にうるさく言われ続けていただろう。地元の男性と結婚するよう段取りを組まれたかもしれないが、ただでさえ口っ端の強い漁師町。夫の実家に住み、口煩い姑と同居しながらの漁師の嫁など私に務まるわけがない。

   いよいよ30歳が迫る頃には、私もお盆や正月に親戚宅への挨拶を拒否するようになった。父親はそれになにか言いたげだったが、母に叱られることはなかった。

 今の時代、結婚だけがすべてではない。母親に言われるほど心強い言葉はないだろう。

『……私、やっぱり子供は欲しいからさ』

『そっか、それなら頑張って婚活するしかないね』

 結婚して子供が欲しい。私の場合、婚活をする最大の理由がそれだった。

 相談所に入会したのは33歳だが、まもなく34歳になる頃だった。35歳を過ぎれば高齢出産と呼ばれる世の中。30代後半や40代で出産している人がたくさんいるのはわかっていたが、万一不妊治療が必要になったときのことを考えると、できるだけ早く結婚したほうがいいと思った。

 婚活を頑張り34歳で結婚できたとしても、子供を産む頃には35歳を過ぎているだろう。はたして自分の身体は無事に子供を産めるのか、若い頃にした過激なダイエットが影響することはないだろうか。

『将来、いざ歳をとってから、なんであのとき頑張らなかったんだろうって後悔したくないからさ』

 結婚は無理にするものではない。今の時代、ひとりで自由に生きている人はたくさんいる。自分がその道を進んでもいいと思うがーー子供が欲しいという気持ちを無視することはできなかった。

 誰かに子種だけもらってひとりで産めばいい? いや、そうではない。

 私は家族が欲しい。愛する我が子を一緒に育てていく、共に人生を歩んでいくパートナーが欲しい。

 けれど、小説の道も諦めることができない。結婚して子供を産んで、母親のように家事育児をひとりでこなす生活では、いずれ小説を書く時間を失ってしまうかもしれない。

 小説家はただでさえ隣の芝が青く見える世界だ。今ですら同時期にデビューした人たちの活躍に胸が苦しくなるというのに、日々の生活に追われ執筆ですらままならない人生になったとしたら。

 やっぱり子供なんて産まなければ良かったと思うのか、それとも、お母さんも昔は小説家だったんだよと過去の自慢話にするのか。

 小説の道をどうするか、悩みに悩み、たとえ本が出せなくなったとしても、おばあちゃんになっても一生書き続けようと結論を出したがーー


 小説の道を諦めることはできないけれど、結婚して子供を産み育てる人生も諦めたくない。


『34歳、一年間全力で婚活して、35歳の誕生日までに良い人に会えなかったらもう結婚は諦めるよ』


 私のこの思いは欲ばりなのだろうか。

 一度きりの人生を後悔しないために。こうして私は結婚相談所に入会し、怒涛の日々が始まるのだった。


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