とうきび畑でつかまえて~3,雲の中へ行ってみたいと思いませんか?②
息吹が働いていた製菓会社は、女性の販売員が活躍する華やかな世界だった。
デパートやスーパーに入った売り場に立ち、お客様の要望に合わせてケーキや贈答用の菓子を詰める。冠婚葬祭によって包装紙や熨斗紙が異なるため、マナーに関する知識は人一倍勉強しなければならなかった。
「ウェディングドレスは若いうちに着ないと似合わなくなるから、二十五歳までに結婚したいんです。安達さんもそう思いますよね?」
息吹のいた札幌本店は短大を卒業したばかりの社員が多く、恋愛に関する雑談で盛り上がる若々しい空気に満ちていた。バックヤードで結婚式用の紅白饅頭を包んでいた息吹は、後輩に話をふられて気まずさを覚えた。
「ごめん、わたしもう二十七歳なの……」
息吹にも男性と付き合った経験はあるが、長続きはしないタイプだった。同級生の結婚ラッシュに焦りはじめる齢でもあったが、かといって昔ほど恋愛に夢中にもなれない。おしゃべり好きの後輩は、包装紙を包む手よりも口のほうが早く動いていた。
「私、学生時代に結婚式場でバイトしてたけど、ドレスだけは若い人のほうが綺麗です。安達さんも早くいいひと見つけないと!」
話を聞いていたほかの女子社員は、みな二十五歳を過ぎている。苛立つ空気に気づかず話し続ける彼女に、先に口を開いたのは先輩社員の村崎だった。
「私、結婚式は白無垢って決めてるの。和装ならいつでも綺麗に着れるなって思ったら、いつの間にかアラフォーになっちゃったわ」
札幌本店でチーフをつとめていた彼女は、細やかな気配りができる優しい女性だった。後で息吹がお礼を言いに行くと、村崎は「私たちも昔はああいうところもあったからね」とあくまで大人だった。ほかの店舗ではベテランの女性たちが若い社員をいじめることもあり、息吹は彼女の下で働けることを心から嬉しく思っていた。
「……実はね、私、婚活してるの」
ふたりきりの休憩室で、村崎が息吹にそう打ち明けた。
「三十五過ぎると出会いが全然なくて、結婚相談所に登録したんだ。でも、なかなかうまくいかなくて……いい人は早く結婚しちゃうって本当なんだね」
「年齢なんて関係ないですよ。村崎チーフなら絶対いい人と出会えますって」
力強く断言する息吹に、彼女は照れながら「ありがとう」と笑った。
「もし興味があったら、今度一緒に婚活パーティー行ってみない? 相談所以外でも出会いのチャンスを作ろうと思って。安達さんもフリーだって言ってたよね?」
息吹も彼氏のいない期間が長くなり、そろそろ次の恋愛に進みたいと思っていた。尊敬する先輩が秘密を打ち明けてくれた嬉しさで、参加を快諾した。
はじめて参加した婚活パーティーで、息吹はひとりの男性と出会った。
パーティーの仕組みもわからず、適当に選んだ人とカップリングが成立した。連絡先を交換し、後日あらためて食事に行くと、思いがけず共通の趣味で話が盛り上がった。
彼は息吹より十歳年上だったが、同世代とばかり付き合っていた息吹にとって、大人の男性の魅力が新鮮だった。
定期的に会い、食事や映画などデートをするようになった。博識な彼は常に息吹をリードし、この人と一緒なら、前向きに成長していけるだろうと思っていた。
プライベートが充実すると仕事も楽しくなる。二十代後半を迎え、結婚し退職していく同僚が多い中、息吹の真面目な勤務態度を評価した本社から辞令がおりた。
新規オープン店舗のチーフをまかせるというものだった。
「チーフ昇進おめでとう! 安達さんならいずれこうなると思ってたよ!」
彼女もまた、同じ店の店長に抜擢された。お祝いに村崎が食事に誘ってくれ、その日はビールで乾杯した。
「次の店舗でも、村崎さんと一緒に働くことができて嬉しいです」
店長の村崎を息吹が補佐する、その大役に心が踊った。一から新しい店舗をつくるには苦労も多いが、ふたりでなら乗り越えていけるだろうと思った。
息吹はビール一杯で酔っぱらっていた。いつもならそこでやめているが、興が乗って二杯目を頼んだ。
新しいビールで乾杯すると、ふと、村崎の手に目が留まった。
「チーフが指輪つけてるなんて珍しいですね」
食品を扱う仕事柄、アクセサリーやネイルは禁止だった。村崎も勤務中はつけていなかったはずだったが、右手の薬指にシンプルな指輪をはめている。
息吹の指摘に、彼女は酔いで染まった頬をさらに赤らめた。
「……実はね、いま、お付き合いしているひとがいるの」
「おめでとうございます!」
飲みかけのグラスで、再び乾杯する。
「婚活パーティーで出会った人で、結婚を前提にお付き合いしてるの。正直もう結婚はあきらめかけてたから、ご縁があって本当に嬉しい」
「写真ないんですか? どんな人か見てみたい」
酔いがまわり、息吹は若い女子のように騒ぐ。村崎もいやがるそぶりを見せず、素直にスートフォンのロックをはずした。
「結婚しても子供ができても、仕事は続けるから。安達さんの力を借りることが多くなると思うけど、よろしくね」
仲睦まじく微笑みを浮かべるふたりの写真を見て、息吹は言葉を失った。
「一緒に行ったパーティーにも参加してたんだけど、覚えてる?」
彼女の隣に写っているのは、息吹が付き合っていると思っていた男性だった。
『あなたが村崎さんとお付き合いしてると聞きました。もうお会いしません。さようなら』
村崎と解散したあと、息吹は地下鉄の駅でメッセージを送った。
彼とは明確な交際宣言をしていたわけではなかった。息吹が一方的に勘違いしていただけだったのかもしれない。二杯目のビールはまるで泥水を飲んでいるようで、酔いも醒めてしまっていた。
終電間際の大通駅は人が多く、息吹はホームの壁際におさまり画面を見つめる。彼のアカウントをブロックしようとしたが、すぐに返信が来た。
『待ってください、誤解です!』
そのメッセージに既読をつけてしまった。仕方なく、息吹は返信を打つ。
『村崎さんはわたしの職場の先輩です。今日、あなたと付き合っていると話していました』
そう返すと、彼から電話がかかってきた。息吹の乗る地下鉄がホームに滑り込んだが、しぶしぶ電話をとった。
「ふたりが知り合いだとは知らなかった」
開口一番、彼はそう言った。電波が悪いのか、声が途切れがちに聞こえる。
村崎は息吹と参加した後も積極的に婚活パーティーに参加していた。婚活の世界は狭く、数を重ねていくと同じように参加していた人と顔見知りになっていくらしい。何度目かのパーティーでお互い誰ともカップリングせず、反省会がてら飲みに行ったところ意気投合したと、息吹は味のしないビールを流し込みながら村崎のなれそめ話を聞いていた。
「村崎さんとお付き合いしているのは事実です。でも、違うんだ、誤解しないでほしい」
「付き合っている人がいて、なにが誤解なんですか?」
「彼女と君と、どちらも好きで選べないんだ」
「……は?」
スマートフォンを握り、息吹は呆然と呟いた。
「君はまだ若いから、年上の自分が引っ張ってあげられる。彼女とは齢が近くて結婚がイメージしやすい。ずっと、どっちがいいか選べなくて……いずれちゃんと話さなければいけないとは思っていた」
「わたしが知らなかったら、そのままずるずる続けるつもりだったんじゃないですか?」
それは、と、言いよどむ声が聞こえる。反対側の路線から車両が迫り、ホームに反響する走行音が消えたころ、彼が言葉を継いだ。
「ちゃんと結論を出すから、一ヶ月待ってくれないか?」
乗客が入れ替わり、人々がホームを歩く。肩をぶつけられ、息吹はたたらを踏んだ。
息吹は村崎に真実を伝えられなかった。幸せそうに彼とのことを話す彼女を悲しませたくなかった。村崎はいまも、自分が誠実な交際をしていると思っている。
「一ヶ月も待つことありません。わたしは選ばれなくていいです」
彼にもなにか事情があったのかと思い、静かに身を引こうと思っていた。けれどこの話を聞いては、納得などできようもない。
「……でも、このことはわたしから村崎さんに言います」
たとえそれで村崎との関係が崩れても仕方ない。尊敬している先輩に、こんな人はふさわしくないと思った。
「二股をかけられていたと知って、それでも村崎さんがお付き合いを続けるというならそれでいいです。でも、村崎さんが何も知らないままでいるのは――」
「君とは付き合っていなかった」
「……え?」
聞き返す声が、ふるえた。
「結婚生活には身体の相性も大事だから。付き合う前に相性を確認するのは、僕らの年齢なら普通のことだよ」
ホームに最終電車がやってくる。これに乗らないと帰宅できない。しかし息吹は、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「君が傷ついているのはわかる。傷つけてしまったのは本当にすまないと思っている。だからといって、それが彼女を傷つけていい理由にはならない」
つまり、逆切れだ。十も年上の人が、平気でこんなことをするとは思わなかった。
けれど息吹は、何も言い返すことができなかった。
「いつか君が、僕の気持ちを理解してくれる日が来ると思っている」
彼と連絡を取ったのはそれが最後だった。
「……いまだに、その人の気持ちが理解できそうにありません」
ほうじ茶をすべて飲み干し、息吹は空の湯飲みを両手で包み込んだ。
「それからも仕事は続けました。先輩ののろけ話も何食わぬ顔で聞きました。自分さえ何も言わなければ、先輩は幸せでいられると思ったから」
やがて新規店舗のミーティングが始まり、ふたりだけで仕事をする時間が増えた。
「……耐えられなくなって、辞めました」
いよいよオープン日が迫ったころ、息吹は辞表を提出した。
会社には引き留められたが、退職の意思は変わらなかった。突然のことにオープニングスタッフも変更せざるを得なく、会社や同僚たちに多大なる迷惑をかけた。立つ鳥跡を濁さずと言うが、一社会人としてあるまじき最後だったと思う。
しかし、心が限界だった。
「馬鹿ですよね、そんな理由で仕事を辞めるなんて。でも、だめだったんです。時間が経てば忘れられると思ったけど、どんどん辛くなっていって……」
そして退職後、息吹の精力的な婚活が始まった。
「自分も結婚すれば、辛い気持ちを忘れられると思いました。彼よりも条件のいい人を探して、うんと幸せな家庭を築けばいいと思って必死に婚活しました。でも、相手を見つけるどころか、自分を必要としてくれる人はいないんだって気づいて……」
婚活の場に身を置くと、自分の価値というものが嫌でも浮き彫りになる。料理が苦手で家庭的には遠いこと。無職で再就職もせず、男性の経済力に頼ろうとしていること。自分の欠点を直そうとせず、相手に都合の良いことばかり求めようとしていること。
「もう三十歳を過ぎました。婚活市場ではどんどん価値がなくなっていきます。わたしを選んでくれる人はもう現われないかもしれない。これからずっと、ひとりで生きていくことになるかもしれない。それを考えると……」
焦りと恐れが絶えず胸の中を渦巻き続ける。孤独感に押しつぶされ、眠れぬ夜に涙で枕を濡らしたことが何度もあった。
誰からも必要とされない。誰にも愛されない。
それがたまらなく、怖い。
「そんな現実から逃げ出したくて、ここに来ました」
息吹の話を、トワは何も言わずに聞いていた。外は依然雨が降り続いている。風に吹かれ、軋む窓が相槌の代わりだった。
スマートフォンに届いたメッセージは村崎からだった。
『突然仕事を辞めて心配してたけど、元気そうでよかったです。新店舗の仕事もようやく軌道に乗りました。時期を見て彼と入籍するつもりです』
村崎と彼の関係はつつがなく進んでいるようだ。息吹が退職してから一年の月日が流れた。いまさら、彼女に何か言ったところで過去の話になるだろう。
息吹がすべてを話し終えると、トワは急須にポットのお湯を注いだ。
「……アタシもね、あの時代では遅い結婚だったんだよ」
二番煎じのお茶は色が薄い。口をつけてもほとんど味がしないが、話し終えて疲れた喉にはその薄さがちょうどよかった。
「姉の嫁入り先がなかなか決まらなくてね。そういうのも齢の順の時代だったから、婚期を逃した娘を嫁にしてくれる家もなくて。そんなアタシを嫁にしたのが、この家のひとり息子だったんだ」
ほうじ茶を飲み、トワは仏壇に視線をやる。線香の香りがただよう仏間に、真新しい遺影が飾ってあった。
「昔は親が結婚相手を決めていたから、どんなに醜男でも飲んだくれでも乱暴者でも、その人と一生をともにしなければならなかった。じいさんは近所でも有名な変わり者で、無口で頑固で何を考えているかわからない人だった。子供がなかなか授からなくて姑にいびられたけど、我慢するしかなかった。離縁に対する世間の目はうんと厳しかったからね」
現代は恋愛結婚が主流であり、生涯独身の人も珍しくない。好きな相手と結ばれるようになった反面、結婚相手を探すために自らお見合い――婚活に勤しむ文化が再熱していた。
「いまの若いもんはそんな苦労をする必要もないのに、なんでわざわざ辛い思いを味わおうとするのかね」
「それは……」
息吹は言葉が見つからない。トワはほうじ茶をすすり、息を吐くようにそっと笑った。
「現実から逃げたくて富良野に来たんなら、この夏はとことん好きなことをすればいいじゃないか。うちにもまた遊びにおいで」
「……ありがとうございます」
息吹には親しい祖父母がいない。もし自分に世話を焼いてくれる祖母がいたら、こんな気持ちになるのだろうか。
「さてと、そろそろ服も乾いたころかね。うちの家族も帰ってくるだろうし、雨が弱いうちに帰りなさい」
トワが歩き出すが、彼女は膝が悪いようだ。痛みに小さなうめき声をあげる。
「いいですよ、自分で取りに行きますから」
息吹は止めるが、どこに乾燥機があるのかわからない。どうしたものかと考えあぐねていると、ふいに居間のふすまが開いた。
「ばあちゃん、乾燥機止まってたから持ってきたよ」
そこにあらわれたのは穂高だった。
雨上がりの夜道は風が涼しく、あぜ道にひそむカエルの合唱が聞こえる。人っ子ひとり通らない道路を、息吹は穂高と歩いていた。
雨雲はすべて通り過ぎ、空には月がぽっかりと浮かんでいる。外灯もまばらな夜道だが、月明りが思いの他明るかった。
「別に送ってもらわなくても、ひとりで帰れるから大丈夫だよ」
「ばあちゃんに寮まで送れって言われたから、責任もって最後まで送るよ。晩酌してなければ車で送ってやれたんだけどな」
息吹は何度もひとりで帰ると言ったが、穂高はそれを良しとしない。女性のひとり歩きを心配するのはどの地域でも同じらしい。
「息吹、明日も仕事?」
「ううん、休み」
「どっか遊びに行くの?」
毎日のようにミル・フルールに来ている穂高だが、顔を合わせて話すのは久しぶりだった。会うたびに日焼けの色が濃くなっているが、真夏になるとどうなってしまうのだろう。
「来月から忙しくなるし、明日は寮で寝て過ごして終わりかも」
「もったいない。元気なうちに遊ばないと」
七月に入ると売店の営業時間が伸び、毎日が残業になる。遊ぶなら今のうちだが、ひとりでどこかに行く気にもなれず、一日中布団の中で過ごす自分の姿が目に浮かぶ。
やがて寮の明かりが見えはじめ、ほっとする自分に気づく。いつの間にか、富良野の寮が慣れ親しんだ我が家になっていたようだ。
「送ってくれてありがとう。トワさんにもよろしく伝えておいて」
女子寮は外部の人間の立ち入りが固く禁じられている。穂高もそれを知ってか知らずか、ほかの住人に見られないようにとの配慮か、少し離れたところで立ち止まった。
「あのさ」
ふいに声をかけられ、息吹は振り向く。
「息吹って、朝、強い?」
「……あんまり強くはない」
「明日、三時に起きて」
突然の言葉に、息吹は時刻を確認する。もう二十三時が近い。これから就寝したとして、ろくに眠れぬまま時間になってしまいそうだ。
早起きをさせていったい何があるのか。訊ねる前に、穂高は踵を返して帰路を歩いていた。
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