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とうきび畑でつかまえて~3、雲の中へ行ってみたいと思いませんか?①

 3 雲の中へ行ってみたいと思いませんか?


 六月の中旬になると早咲きのラベンダーが色づき、ミル・フルール富良野の本格的な観光シーズンが始まろうとしていた。
 蝦夷梅雨は明けたはずだが、六月は雨の日が多い。日曜日は観光客の数も多く、息吹は朝からずっとレジに立ち続けていた。
「飛ぶように売れるって、こういうことを言うんですね」
 何度補充をしても、ビニール傘があっという間になくなってしまう。レジの混雑がひと息ついたところで、息吹は傘の入っていた段ボールをたたむ。同じくレジに立ち続けていた黛が、額の汗を拭いながら外を見た。
「雨の日はみんな屋内に入ってしまうけど、実はこういう日こそ外にいたほうが楽しめるんですよ」
「そうなんですか?」
 降り続ける雨が花畑に靄をかけてしまい、景観はよろしくない。写真のおさまりも悪く、観光客はもっぱら食事やお土産の購入にいそしんでいた。
「雨の日はラベンダーの花が濡れて香りが立つんです。花畑を歩くと、生のラベンダーの香りを楽しめるからおすすめですよ」
 毎年ここで働く者だからこそ知り得る情報だ。休憩の時に散歩しようと考えていると、店内の内線が鳴った。
「――はい、売店ラベンダーです」
 黛は必ず三コール以内に電話をとる。
「海外の迷子のお客様、ですか。わかりました、園内放送流します」
 用件を簡潔に済ませ、彼は受話器を置く。園内放送を管理する音響装置を操作し、マイクのスイッチを入れた。
「ご来園中のお客様に、迷子のお知らせを申し上げます。中国からお越しの、リ・ショウメイちゃんのご家族様、売店ソレイユでお待ちしております。繰り返します、中国からお越しのリ・ショウメイちゃんのご家族様、売店ソレイユでお待ちしております」
 売店ラベンダーでは、落とし物をはじめ車の呼び出しなど日に何度も園内放送をかける。
「チンリュイカーメンジューイー」
 黛は何の躊躇もなく中国語を話し始める。彼の流暢なアナウンスに、放送が終わるとスタッフの間で拍手が起こる。それを受け、黛は恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。
 ひと息つく間もなく電話が鳴る。黛が内容をメモにとり受話器を置くと、そばにいる息吹を手招いた。
「安達さん、放送をお願いできませんか」
「わたしですか?」
「今朝から喉の調子が悪いんです。迷子は中国語が必要でしたけど、今回は車の呼び出しなので大丈夫ですから」
 園内放送で落とし物に次ぐアナウンスは、駐車場に停まった車の呼び出しだった。内容はレンタカーのライトがつけっぱなしになっているというもの。メモには車種やナンバーも明記されており、駐車場の誘導員から連絡があったのだろう。
「レンタカーを借りるのは日本人だけではないので、英語でも話してください」
「……わかりました」
 園内放送にはカンペがあり、日本語と英語が用意されている。英文の上にはカタカナのルビがふってあり、読み上げるだけなので簡単と言えば簡単なのだが。
「ご来園中のお客様に、お車のお呼び出しを申し上げます。シルバーの軽自動車でお越しの、れ・三八五九のお客様。ライトが点灯しています。至急、駐車場にお戻りください。繰り返します……」
 日本語の放送はもう慣れた。はじめは緊張で噛んでしまい、それを聞いたスタッフにいじられることもあったが、問題は英語のアナウンスだ。
「メイ、アイ、ハブユア、アテンションプリーズ」
 話すのは簡単な中学英語だが、息吹がやると典型的な日本語英語になってしまう。流暢のりの字もない放送に店内の客が笑っているのが聞こえた。
「アゲイン。ザ、シルバーカー。レ・スリー・エイト・ファイブ・ナイン。プリーズカムバックトゥー、ユアカー」
 放送を終えるとレジに行列ができていた。ほかのスタッフも業務に追われ、黛ひとりでさばいている。日曜日は休む時間もないと痛感し、息吹は新しいレジを開けた。
「お次にお待ちのお客様、こちらへどうぞ」
 二番目に並んでいる日本人に声をかけるが、最後尾にいた中国人が我先にとやってくる。その行動に長らく待たされていた人々が殺気立つのを感じた。
「プリーズ、ウェイト、イン、ライン」
 一列に並んでお待ちください。英語が分かる人だったのか、カタコト英語に素直に従った。息吹はあらためて日本人に声をかける。
「お待たせしました、商品をお預かりします」
 並んでいたのはカップルだった。男性が持っていた買い物かごを受け取ると、女性が息吹の顔をまじまじと見つめる。
「安達さん、だよね?」
 名前を呼ばれ、息吹は顔をあげる。
「やっぱり、安達さんだ」
「……村崎(むらさき)チーフ?」
 そこにいたのは、前職の会社の先輩だった。
「久しぶり、元気にしてた?」
 村崎は大量のお土産を購入していた。種類が多く、息吹は間違えぬよう慎重にレジを通すが、彼女はおかまいなしに話しかけてくる。
「急に辞めたから心配してたんだよ。なんで富良野にいるの? 引っ越したの?」
「……お土産用の袋は何枚つけますか?」
「それぞれ一枚ずつお願いします」
 大量に購入した石鹸を見て、それを受け取るであろうかつての同僚たちが浮かぶ。息吹が働いていたころも、旅行のたびにお土産をくれる優しい先輩だった。
「さっきのアナウンスって安達さんの声だよね? 英語が話せるなんてすごいねって、彼と話してたんだ」
「でも、すごい日本語英語だった」
 話を振られ、隣の男性がうなずく。苦笑交じりのその言葉に、息吹は曖昧に笑い返す。会計を終え商品を渡すと、彼が手を出した。
「……ありがとうございました」
 一瞬、指先がぶつかる。息吹はマニュアル通りの接客をして頭を下げた。
「あのね、安達さん――」
「すみません。お客さまが並んでいるので」
 冷たいとわかっているが、すぐに次の客を呼んだ。村崎は名残惜しそうな表情を浮かべるも、混雑した空気を察してそれ以上なにも言わなかった。
 店を去る姿を目で追いそうになるのを、息吹は懸命にこらえて仕事に集中した。

 怒涛の日曜営業が終わり、息吹は疲労困憊の身体で帰路についた。
 昼間はやわらかく降っていた雨だが、夕方から雨脚が強くなっていた。スニーカーがあっという間に水浸しになってしまうが、明日が休みだと思うとあきらめが勝った。
 舗装の甘い道路はところどころ水たまりができている。ひっきりなしに車が行き交うが、ナンバープレートはレンタカーばかりだ。ひときわ大きな水たまりに差し掛かったころ、一台の車がスピードをあげて通り過ぎていく。
 タイヤが盛大に水しぶきをあげ、頭から泥水を浴びせていった。
「……最悪」
 傘の意味もなく、身体がぐっしょりと濡れる。ジーンズが泥の色に染まった。
 寮までまだ距離がある。最繁忙期を前に住人が増え、お風呂も順番待ちになっていた。洗濯機も奪い合いになっているため、今日中にこれを洗えるかもわからない。
 立ちっぱなしだった足が、鉛のように重い。
「あれま、かわいそうに」
 目深にさした傘の向こうから、聞き覚えのある声が届いた。
「ここの道はいつも水たまりができるんだよ。地元の人はちゃんと避けて走るけど、観光客はおかまいなしに走るからね」
 大丈夫かい? と傘の中を覗きこんだのは、無人販売所で出会った老女、トワだった。
「あれ、あんただったのかい」
 水たまりは無人販売所のそばにあった。彼女は閉店準備をしていたのか、籠にたくさんの野菜が入っている。雨の日は無人販売所の売れ行きも芳しくないらしい。
「派手に汚れたね。荷物は大丈夫かい?」
 仕事用のトートバッグも泥水をかぶっていた。スマートフォンの存在を思い出し、息吹は確認する。中富良野町には携帯電話のショップがないため、修理に出すには富良野市か旭川市まで行かなければならない。
「……大丈夫です。ちゃんと動きます」
 スマートフォンにはメッセージが届いていた。操作する拍子に、メッセージのアプリを立ち上げてしまう。差出人の名前を見て、息吹は乱暴に鞄の中に戻した。
「ほれ、ついておいで。早く着替えないと」
「え?」
「そんな格好で風邪でもひいたら大変だろう。女は身体を冷やすんじゃないよ」
 言いながら、トワは無人販売所の脇にある坂道を登り始める。有無を言わせぬ迫力があり、息吹は断ることもできず後に続いた。
 砂利を敷き詰めた坂道をのぼると一軒の民家があった。昭和の趣を感じさせる住宅であり、家のそばにビニールハウスが見える。小高い丘をすべて畑にしているらしく、露地栽培の野菜が雨に打たれて葉を揺らしていた。
 家の表札には『稲瀬』とある。トワは玄関の引き戸を開け、土間に野菜のかごを置いた。
「あがんなさい。廊下が汚れるから靴下はここで脱ぐんだよ」
「でも……」
「いいから、遠慮するんでない」
 トワは「よっこらせ」と呟きながら三和土にあがる。居間からテレビの音が漏れ聞こえるが、人のいる気配はなかった。
「うちはみんな早くに風呂をすませるから、もうぬるくなってるかもしれないね。沸かし直してあげるからさっさと入りなさい」
 緊張する息吹も気にせず、トワは風呂場に連れていく。脱衣所で服を脱ぐように言われ、何が何だかわからないまま風呂場に押し込まれる。
「着替えは後で適当に置いておくから」
 言うだけ言って、トワは脱衣所を後にした。ひとり取り残され、息吹は裸のまま立ち尽くす。実家の風呂はユニットバスだったが、稲瀬家はタイル張りの浴室だった。
 やがて雨に濡れた身体が冷えはじめ、息吹は湯船の蓋を開けた。

 風呂上がりに用意されていたのは旅館で着るような浴衣だった。テレビの音がする居間をのぞいても誰もおらず、廊下を歩くと急に引き戸が開いて悲鳴をあげてしまう。
「……ばあちゃん?」
 あらわれたのは小さな女の子だった。座敷童かと思ったが、普通のパジャマを着ている。
「だれ?」
「えっと……おばあちゃんのお友達かな?」
「ばあちゃんはふじんぶの用事でお出かけしてるんだよ。じいちゃんもパチンコに行って帰ってこないよ」
 舌足らずな話し方だが、言うことは一丁前だ。前髪の短い額は賢そうで、息吹を見上げる瞳はこぼれ落ちそうなほど大きい。
「それ、おっきいばあちゃんの浴衣だよ?」
 大きいおばあちゃん――トワは曾祖母にあたるのだろう。息吹は腰をかがめて女の子と目線をあわせる。
「大きいおばあちゃんに借りたの。大きいおばあちゃんはどこにいるのかな?」
「おっきいばあちゃんなら台所にいるよ」
 彼女に連れられ、息吹は家の中を歩く。台所には数珠のような暖簾がかけられ、それををくぐると橙色のビニールタイルが鮮やかに出迎えた。
「穂乃花(ほのか)、テレビ見てたんでないのかい」
 穂乃花と呼ばれた女の子がトワの足元にまとわりつく。息吹は「お風呂いただきました」と頭を下げた。
「ちゃんとあたたまったかい? いま乾燥機かけてるから、乾くまで晩ご飯あがんなさい」
「ほのかも食べたい」
「あんたは先に食べただろう。いいから、上の階さ行って遊んでもらってきなさい」
 トワに言われ、穂乃花は「はーい」と返事をしながら去っていく。小さな足音がぱたぱたと響き、階段をのぼっていくのが聞こえた。
 通された居間は畳の香りがする和室だった。仏間とのふすまは開け放たれ、大きな仏壇が見える。欄間には先祖代々の遺影が飾られ、稲瀬家は歴史のある家だと知った。
 年季の入ったテーブルに運ばれたのは、白米と野菜炒めとどんぶりに入った汁物。味噌汁だろうと思っていた息吹は、その色を見て目を丸くする。
「この赤いの……なんですか?」
「ボルシチだよ」
 純和風の家で突然ロシア料理が登場した。名前こそ知ってはいたが、ボルシチを食べるのははじめてのことだ。トマトの色とは違う鮮やかな赤色をしているが、どの野菜も汁の色に染まっているため区別がつかない。
「いただきます」
 まさか富良野でボルシチを食べる日が来ようとは。息吹は白い湯気のあがるスープに息を吹きかけて冷まし、おそるおそるすすった。
「……甘い」
 ミネストローネのような味を想像していたが、スープには砂糖のような甘みがあった。
「それはビーツの味だね」
「ビーツ?」
「赤いサトウダイコンみたいなもんかな。近所の農家が育てているのをもらったんだ。まな板が真っ赤になるくらい赤みが強くてね、鉄分も豊富だから身体にいいんだよ」
 汁の中でひときわ赤みを放つ野菜がビーツらしい。食べると大根と人参の中間のようなほくほくとした食感があり、ほのかに土の香りがした。
「おいしい。ボルシチ、はじめて食べました」
「ビーツはいろんな料理に使えてね。びしそわーずに入れると綺麗なピンク色になるんだ」
 トワはお年召しながらも様々な料理を知っているらしい。副菜の野菜炒めはズッキーニの緑と黄色がカラフルだ。何を食べてもおいしく、あっという間に完食してしまった。
「……しまった、今日、掃除当番だった」
 お腹が満たされ、息吹はふと思い出す。乾燥機もまだ時間がかかりそうで、スマートフォンから和奏にメッセージを送った。
『すみません。帰るのが遅くなりそうで、掃除当番代わってもらってもいいですか?』
 既読はすぐにつき『OK!』のスタンプが返る。雨の日はみな寮にいるため、暇を持て余していたに違いない。
 食器を自分で洗うと、トワが食後のお茶を淹れた。ほうじ茶の芳ばしい香りに誘われるかのように、外の雨音が強くなる。
「あんた、なんでここに来ようと思ったんだい?」
 トワは息吹の制服を洗濯したことで、ミル・フルールのスタッフだと気づいたらしい。
「一年前に仕事を辞めて、再就職する前に富良野に住んでみようと思って」
「その齢なら、仕事よりも嫁に行ったほうがいいんでないかい?」
 当たり障りのない理由を作ったはずが、トワに痛いところを突かれてしまった。
「アタシがあんたくらいの齢なんて、とっくに結婚して子供を産んでたもんだよ。うちの若いのも好き勝手やってるから、昔ほど結婚を急ぐ世の中でもないんだろうけど」
 不思議と、その言い方に嫌味は感じられない。都会と田舎では結婚適齢期に差があるとは感じていたが、上の世代にも理解を示す人はいるらしい。
「結婚も、したいと思ってるんですけどね」
 ふと、口からそんな言葉が漏れた。外は風が出てきたのか、窓ガラスががたがたと音を立てている。その音にスマートフォンのバイブレーションが鳴った気がしたが、それは幻聴だった。
 先ほど届いたメッセージの内容が、頭にこびりついて離れない。
「わたし、札幌で働いていた時に、婚活パーティーに参加したことがあるんです」
 ほうじ茶の香りに誘われるように、息吹はぽつぽつと話しはじめた。


#創作大賞2024 #恋愛小説部門


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