![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/157006457/rectangle_large_type_2_c5b37167258e51792a439b079725e19b.png?width=1200)
雑感
暫く書いてなかったので。
書いてなかったのは、多分メンタルがだいぶ安定してきたからだと思われます。心配してくださった皆さん、ありがとうございました。
理系とは
古くからフォローしてくださってる方は、私が一応前職も現職も所謂「理系職」なのをご存じかと思うのですが、世の中の本物の理系の方々からすると、私なんぞは似非理系かと思います。
そもそも偏差値測定不能からの受験で、お金があるとかないとかではなく、脳みその使い方というか勉強をする意義がさっぱりわからない義務教育時代を過ごし、そこからの一念発起なので…理系も何もないです。元々が勉強できない人間なのです。小学校のカラーテストで0点ばっかだった私に「小学校のテストで100点以外取るなんてないでしょ…」という人にはわからないでしょう。(よくいわれる)
ところで、一応理系職で、若い子達を社会に出す仕事をしている身として言っておきたいのは、「理系だから〇〇!」の大半は戯言だということです。
確かに「理系は数字とアルファベットしかまともに書けない」はあるあるだと思うのですが…(私)。
理系だから英語や国語が苦手→×(数学できないけど国語得意な人がいたね)
理系だからすぐ論破しがち→×(やめろ)
理系だから一般的な倫理観より知的好奇心が勝る→×(ただの倫理観ない人です)
理系だから数字の計算より文字式の計算の方が安心→〇(偏見)
こうです。(最後…)
あのですね。人には心があって、理系は人の心がない(血も涙もなく論破しがち)というのは違うよということは言っておきたいです。
ASDやADHDなどの発達特性がある人は体感的に多いかな?とは感じますが本当はそういう人達にも心自体はあるわけで。(そうは見えない人もいるんだけど)
そこで私が私に、勝手に課している職責の1つに「後進には、人には心があることをきちんと理解させる」があります。
理系と呼ばれる世界にいると、とかく誤認しやすいのですが、人は皆「心」があるのです。
どんな研究をするのも私は良いと思っていて、それこそ知的好奇心からくるあらゆることがこれからの社会に役立つ可能性を秘めている。研究とは、そうであるはず。
しかし、知的好奇心だけで好きなように、それこそ「自由」に、やりたい放題するのは人として違うかなと私は考えるのです。自由には責任がついて回るのです。
話は少し逸れますが、自創作ではそこを描きたいなと常々思っています。
画像・音声生成AIの賛否について
最終的にこの話に行きつくのですが、ここ数日TVを観ていると新内閣ではAIについても国として良い方向で使っていきたい的な話が流れてきて、それ自体は良いことだと私は考えています。
新技術が未来に貢献し、より良い社会になる助けになるのであれば国力の1つとしてAIを育てていくのが良い。というのが私の考えです。今文化庁を中心に議論されているのは、進度としてはゆっくりかもしれませんが良いことなのです。じっくり、真剣に、丁寧に、対話すべきときなのです。
しかし現状、少なくともSNS上では画像や音声を生成するAIについては、主義主張がかなり断絶していて、もうこの状態では正しく議論することは不可能だと私は感じています。
SNS上ではしょっちゅうAI推進派と反AI派が、一見「議論」しているように見えますが、私からするとあれは議論ではなく罵り合いなので。
こういうのを見ていると、心が荒むのでSNS上ではできるだけもうAIについては話さないしRPもしない、突っ込まないようにしています。ここに書いたのを最後にしたい。
自身の主義主張を述べておくのであれば、最近の流れからいくともう気持ちとしては揺るがないと思うのですが、以下の通り。
画像・音声生成AIに関しては現状法律の規制はないが、使わない。
生成物は創作物という定義からは外れる、というのが自身の解釈。
技術面について議論すべきだのなんだのと言うが、AIについてはもう他者と話は進めない。
これが私の現状での考えです。
この考えに異論がある、というのであれば、少なくとも現時点では大なり小なりの澱が残り、多分分かり合えないと思います。
さて、法規制がないのだから使おうがなんだろうが構わないだろうと思われるでしょう。しかし教師データに何が使われているかわからない現状で、画像・音声AIを使うことはかなりリスクが高いはずです。よく考えればわかることなんですよ。
AIは、技術面ではそれは確かに革新的なもので研究してみたい気持ちはあるものの、さて、良いものなんだから皆もっと臆せず使うべきだと、本当に他者に言って良いべきか。
これは素晴らしいものだからと勧められたものに対してその真偽を検討するのは、勧められたものを受け取った本人であることを忘れてはいけないのです。
技術を受け取る人が、安心して受け取れるだけの根拠を、我々は提示しなければならないのです。
だって人には「心」があるから。その心に、寄り添えなければ良い技術とは言えないのです。
人には「心」がある。
現状画像・音声AIの教師データに自分が作った創作物が使われている、児童ポルノなど危険なデータが学習されている、その可能性があり排除できない。不安である。と思っている人相手に「これは良い技術なんだから臆せず使いなさい!」と勧めるのは、人の心を無視している。そういいたいのです。
本当の理系職、技術者は相手の不安をできるだけ取り除いた上で技術を提供すべきなのです。
大事なことだから表現を変え二度言いました。←
もしこの考えが、理系としておかしい、似非だというのであればもう私自身は世間で理系を自称するのはやめるべきだと今日ふと思い記しておく。
あなたの主張はそれはそれなんだろうね。けどそれでもAIは良いのに。という人は、私からしたら理系でも技術者でもなくただの倫理観のない愚か者だと思う。これだから理系は…といわれる所以、その原因を生み出している張本人だと私は指摘したい。
ぎりぎり許されるAIとは。
現状インターネット上のあらゆるテキストを学習したchatGPTは、これが人が使って良いAIとしてぎりぎりかなと思う。
そもそもチャットボットとして使いたいというのがAIの原点だと思うのでそう考えるとchatGPTに、人がよく使う文章をそのまんま入れて、そこそこのものが返ってくる程度で、実は十分社会的役割は果たしているのでは。
勿論このAIが画像や音声を生成できるのは知っているので、私としては
「無料で使える範囲のchatGPTで」
「仕事の成果物として出力された結果をそっくりそのままは使用せず」
「Wikipediaで調べました程度の参照、参考、引用程度」
…で、使う。
人が言い争いなく、つまらない議論もどきをせず、AIを使いたいというのであれば、線引きとしてはここまでかなと感じています。
あとは医療の分野とか特定分野で特化したAIの開発に注力するのが良いでしょう。
使ってみるとわかるんだけどchatGPTは日々学習しているけれど、成果物として提示されるものの「精度」は、普通の人が普通にプロンプトにあたる「文章」を入力しても思ったより想像した「答え」が返ってこないんだよ。プログラム1個作ってもらっても、ミスというか解釈違いかな?そういうのが見受けられる。
そこに可愛さを見いだせるのは理系的思考、かもしれない(偏見)。
「質問、投げかけ」にあたる「プロンプト」には、一工夫させないと、期待した答えは来ない。この程度で良いのです。
オッペンハイマーから「技術者・研究者とはなにか」を考えたい
有料ですが配信始まりましたね。
近いうちに観ようと思います。
画像・音声AIについて使ってみたい人、これからの社会のためには使ったほうが良いと思う人、所謂AI推進派に自分はあたるかも?という人もそうでない人も、一度オッペンハイマーを観て「技術とは何か?」について考えたほうが良い。
人には心がある。
頭が良くても悪くても、何かしら、大なり小なり過ちを起こすし、それもまた心があるからである。