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【小説】あなたと握手

 改札を出て、駅付近の施設の地図の書かれた案内板の横に立つ。
 腕時計を見ると、待ち合わせの時刻より10分以上前の時刻を指していた。
 早く着きすぎてしまったなと考えてから、カバンからペットボトルを取り出し、キャップを捻る。しかし、手袋が擦れて開ける事ができない。
 谷脇和香はため息をついてから、右手だけを手袋から出してキャップを握った。
 すると、脳裏に工場のような場所の景色が浮かんだ。その中で一際大きな機械が、大袈裟な音を立ててペットボトルのキャップを砕いている。
 深く目を瞑り、何度も瞬きをして周りを見渡すと、先ほどまで見ていた景色がぼんやりと浮かんできた。
 いつもの事ながら嫌気がさす。

 和香は、触れた物や人の“最期”が見えてしまうのだ。

 ペットボトルを傾け麦茶を流し込んでいると、待ち合わせ時間に遅れてもいないのに、申し訳なさそうに小走りをして長原健がやってきた。
「ごめんごめん」
「まだ待ち合わせ時間の前なんだから、急がなくていいのに」
「待ち合わせの時間に間に合っても、和香さんを待たせた事には変わりないよね。だから、悪いなって」
 学生時代にラグビーをやっていたらしい大きな体を小さく折りたたみ、頭を下げた健を見て、過剰なまでに周りの人に気を使うその優しさに惹かれたのだと改めて思い出す。
「いいのにそんなの」
「優しいね、和香さんは」
「そんなことないよ。じゃあ、行こっか」
 予約しているレストランに向けて歩き出そうとしたところ、健が「あっ」と声を上げ驚いた表情を見せる。健の視線の先を追うと、和香の手元に辿り着いた。
「和香さんが手袋してないの初めて見たかも」
「あっ、やばっ」
 和香は急いで右手に手袋をはめた。

 周りには極度の乾燥肌だと嘘をつき、和香は常に手袋をつけていた。
 そのせいで、異性との交際が長続きしたことはない。男性からのボディタッチやそれ以上の行為を、必ず和香が拒むからだ。
 その原因は、物心がついた頃母親に撫でられた時に脳裏に浮かんだ、病室で苦しむ母親の姿に起因する。
 その映像が脳裏に浮かんだ10年後、全く同じ光景を病室で見た時に、身近な人、特に大切に思う人の“最期”を見ることに耐えきれなくなり、触れないようにしようと心に決めた。
 だからきっと、交際が始まって3ヶ月ほど経った健との関係も、そう長くは続かないんだろうなと半ば諦めてしまっている。
 大切にしたいと思う相手だからこそ深い関係になれないという矛盾に、改めて嫌気がさす。

 レストランへと向かう道でも、健とは一定距離離れている。手も握らせない和香の事をどう思っているのだろうと健を覗き見ると、深刻そうな表情をしていた。
「ん?どうしたの?」
「あの子、迷子じゃないかな」
 健の差した指の先を見ると、赤色のワンピースを着た5歳くらいの少女が辺りをキョロキョロと見渡している。
「確かにそうかも」
「だよね」
「心配だから、声かけてみよっか」
 少女の元に小走りで近づくと、目元が潤んでいる事が分かった。
 和香がしゃがみ込んで少女と同じ目線になり、いつもより高い声を出して優しい声を心掛けた。
「どうしたの?」
「えっ……えっと……」
 もじもじとした少女に、健もしゃがみ込み笑顔を向け、和香と同じようにいつもより高い声で少女に話しかける。
「迷子かな?」
 無言で頷いた少女の目線が和香と健の間で止まり、表情がパッと明るくなる。
 振り返ると、交差点の先で30代程度の女性が焦った表情のまま信号待ちをしていた。
「あの人がお母さん?」
「うん!」
 少女は、和香の問いかけに、先程とは打って変わって元気よく答えた。それから少女は「ありがとう」と笑顔を向け、和香の頬に手を触れた。
「あっ」
 少女に触れてしまったと焦ると同時に、脳裏に映像が浮かんだ。それは、少女がトラックに轢かれるシーンだった。
 やむを得ず誰かの“最期”を見ることは何度かあったが、いつも以上に不快な気持ちが胸に漂う。
それは、和香の見たあの少女の“最期”が、今と変わらぬ姿のままだったからだ。それは、少女の“最期”がそう遠くない事を意味している。
 しかも、今も着ているあの赤いワンピースを着た姿だった。

「ん?赤いワンピース?」
「どうしたの?和香さん?」
 慌てて振り返ると、心配そうな表情を向ける健の先に、母親の元へ走り出している少女を見つけた。
 そして少女の5m程先には交差点がある。しかも、脳裏に浮かんだ映像の交差点と同じ景色だ。それが意味する事が分かった和香は、立ちすくんでしまった。
「大丈夫?和香さん」
「危ない、……あの子。轢かれちゃう」
 何とか絞り出した和香の言葉を聞き終える前に、健は少女の元へ走り出していた。
 和香は両手の掌を交差し強く握りしめ、瞼を閉じた。
 それは、何とか助かってほしいと祈ると同時に、少女の“最期”を見る事を避けたいという気持ちが強かったのだろう。

 それから何秒目を閉じたか分からないが、「危なかったー」という健の声が耳に入った時、和香は強く握っていた両手の力が抜けた。
 瞼を開くと、母親の足元に抱きつく少女と、母親にお辞儀をされ恐縮する健の姿が目に入った。
 母親以上に頭を下げた健が、「無事で良かったです」と言い残し和香の元へ駆け寄ってきた。
「本当よかった無事で。……和香さん、大丈夫?顔色悪いけど」
 心配そうに和香の顔色を覗き込む健は、汗で前髪がおでこにこべりついていた。
 そんな、必死で少女を救った健の姿を見て、和香はひとつ決心をした。

 私の持った能力を活かそう。

 “最期”を見るというこの能力は、誰かの“最期”を書き換えられるかもしれない。
 そして誰よりも、目の前にいるこの人の“最期”を出来る限り書き換えたい。
 和香は手袋を取り、何にも覆われていない右手を健に差し出した。
「握手、しよ」