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【小説】ひつまぶしのパラドックス

運ばれてきたひつまぶしのおひつを覗き込むと、うなぎの光沢に眩しささえ感じた。
創業100年を超えるこの店の落ち着いた雰囲気に、『これで4,500円ってことは一口いくらだろう』なんて考えている私だけ、馴染めてないように思えた。

目の前に座る私より3歳年上の孝義さんは、私の姿を気にも止めず、うなぎの蒲焼の乗ったおひつからしゃもじで全体の1/4を掬い上げ、茶碗に盛る。
『おひつを4等分にして、1杯目はそのまま食べます。
2杯目はお好みの薬味をのせて食べます。
3杯目は出汁をかけて茶漬けにして食べます。
そして、4杯目は自分の好きな食べ方で食べます。』
壁に貼られた紙に書かれた『ひつまぶしの正しい食べ方』の通りに、孝義さんは薬味を乗せずに茶碗に盛ったうなぎを一口食べる。
そんな“正しさ”を受け入れひつまぶしを食べる婚約者を見て、私はふと、学生時代に聞いたある『パラドックス』を思い出した。


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「ひつまぶしのパラドックスってあると思うんだよね」
行き慣れたファミリーレストランで、メニューを広げながら慎二は渋い顔をしていた。
「ひつまぶしのパラドックス?」
その頃経済学部に在学していた私は、経済学の授業でよく聞く『パラドックス』という言葉を聞いたせいで、来週に迫った期末試験のことを思い出し、少し憂鬱な気持ちになった。
同じく経済学部に通う同級生の慎二は、メニューを私に見せて、『うなぎフェア』と書かれたところを指差した。
「これ、うな丼と同じ値段でひつまぶしが頼めるんだよ」
慎二が指す先を見ると、確かにうな丼とひつまぶしはどちらも1,580円となっていた。
「へー」
「なら、ひつまぶしの方がお得だなって思うじゃんか?」
「まあ」
「で、ひつまぶし注文したとするよ。でもよく考えたら、ひつまぶしもうなぎがメインなわけじゃん?そしたら、うなぎそのものの味をしっかり味わえた方がいいよね」
話の流れがわからなくなってきたが、私は空腹が抑えられず、早く話を終えて料理を注文したいので同意する事にした。
「確かにね」
「そしたら、薬味かけたり茶漬けにするより、そのまま食べる方がいいよね」
「そうだね」
「でも、じゃあもううな丼だよねそれは。得するためにひつまぶしを注文したのに、うなぎの良さを味わおうとしたらそれはうな丼になっちゃうんだよ」
「それならうな丼注文したらいいんじゃない?」
「いやでも、同じ値段で色んな味を楽しめるならひつまぶしのがいいじゃんか」
「はあ……」
「それなのにひつまぶしの中でよりうなぎを楽しもうとするとうな丼になってしまう。……もうこれってパラドックスだよね」
慎二の話を聞くうちに、『ひつまぶしのパラドックス』なるものへの興味はどんどん無くしていったが、慎二の指さしたひつまぶしの写真をよく見たせいで、ひつまぶしを注文しようという決意は増していった。
そして期末試験が終わり、慎二と付き合う事になる時も、『片想いのパラドックス』という論を唱えていた気がするが、細かい事は覚えていない。

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空想に耽っている私をよそに、孝義さんは2杯目の茶碗にネギやわさびを乗せていた。
“正しさ”をひたすら疑い続ける慎二との付き合いは、結局は2年ほどで終わってしまったが、慎二の唱える様々な『パラドックス』を聞くのは、実は好きだった。
でも、“正しさ”に流されて生きる方がよっぽど苦労せず、スムーズに生きられる事を知った今の私には、“正しさ”を真っ直ぐに受け止める孝義さんとの結婚に対する迷いは全くない。

ただ、“正しさ”へのせめてもの抵抗として、目の前に置かれたひつまぶしのおひつの半分ほどを茶碗に盛り、そのまま食べ始めた。