見出し画像

【小説】メロンソーダ

「妻が探偵を雇ってたらしくてさ」

 日本橋にあるワインバーの個室で、険しい表情とは裏腹にピンと背筋を張った和野昌弘が言った。
 テーブルの上には、皿の中心にちょこんと乗った料理がいくつかと、ワイングラスを握る昌弘の左手薬指に収まっているハリスウィンストンの指輪など、この場によく馴染んだものばかりが並んでいる。

 そんな中で一際場違いな、お酒の苦手な私の頼んだメロンソーダのたてるプクプクとした泡だけが、この場に馴染めない私の唯一の救いだった。
「そうですか」
「それで、妻が君の名前や住所を突き止めたらしい。極力君に迷惑がかからないよう努力するけど、保証はできない」

 こんな時でも淀みなく喋る昌弘は、私のことをしっかりと見つめていて、男性にしては長いまつ毛越しに見えるその瞳は、出会った頃と同じくウソみたいに澄んでいた。
 その頃は単なる会社の上司だったが、今では昌弘の妻から怒りを買うような関係になっている。

「わかりました」
 そう呟きながら、昌弘の言う『君に迷惑がかからないよう』にする努力は、きっと無駄だろうなと思っていた。
 これまでの経験上、自分を裏切ったパートナー以上に浮気相手に対して苛立ちを感じてしまう事を知っているし、それを覚悟の上での付き合いだったので、今さら文句は言えない。

「ありがとう。物分かりが良くて助かるよ」
 昌弘のその言葉に、私はホッとする。
 1人では来れないようなオシャレな場所で、本来の私では手の届かないような男性と共にいる中で、『物分かりのいい女』を演じてきた事が、報われたような気がした。

 20代と言われても通用するような童顔なのに、36歳とは思えないほど落ち着いた低い声で呼ぶ私の名前。その時に、4回動く突出した喉仏。
 本来の私なら手に入れられない、そんな魅力的なものを手に入れる唯一の手段が、『物分かりのいい女』を演じる事だった。

「……で、そういう事だから。2人っきりで会う事はもう今日限りにしよう」
 昌弘のその言葉に、私はいつものように「わかりました」と答えてしまいそうになったけれど、視界に入ったメロンソーダがそれを遮った。

 場違いなライトグリーンが、場違いな私さえ受け入れてくれるような気がして、それまで大切に抱えていた物分かりのいい私を投げ捨てた。

「当たり前ですよ。こっちから願い下げです」
 目を大きく見開き、驚いた表情の昌弘にかけてやろうとメロンソーダのグラスを持ち上げたが、私に勇気をくれたメロンソーダに罪悪感を感じて、ストローも使わず一気に飲み干した。

「さようなら」
 そう言って立ち去る私は、口内を刺激する甘い炭酸に、幸福感さえ抱いていた。