【小説】明晰夢
傘に当たる雨音が、どんどん大きくなってくる。
耳を塞ぎたくなるほどに煩いけれど、傘と鞄で両手は埋まっている。
傘が飛ばされそうなほどに強い風により、袖はもうびしょびしょに濡れてしまった。
家路を急ぐため小走りをしようするも、一向に進む気配がない。
おかしいなと思い足元を見ると、地面に足がついていなかった。ああ——僕は今、宙に浮いているのだ——
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目が覚めると、そこは電車の車内で、電光掲示板には僕の家の最寄り駅が表示されている。
すぐに状況を理解し、「すみません、降ります」と声をかけつつ、人を掻き分け電車を降りた。どうやら、職場から家に向かう電車の中で眠ってしまっていたようだ。
ホームに降り立つと同時に、電車のドアが閉まった。
こんなところで寝てしまうなんて、もったいないことをしたな——そう思いながら、スマートフォンを取り出す。今見た夢を、書き出すのだ。
それは所謂夢日記というもので、毎朝目が覚めたら欠かさず記すようにしている。今回のように電車内で居眠りをしてしまった場合も、会議中にうとうととしてしまった場合も、夢を見たら必ず記している。全ては、明晰夢を見れるようにするために。
明晰夢というものは、夢だと自覚している状態で見る夢のことだ。その夢の中では、自由に振る舞うことができる——らしい。
というのも、僕は未だ一度も見ることができていないのだ。
今は、明晰夢を見るために試行錯誤を繰り返している最中であり、夢日記もその一つである。見た夢を記録することで、夢を見ている時の精神状態と徐々に繋がっていき、今現在夢を見ているのだと自覚をしやすくなるのだそうだ。
それを知ってから、毎日欠かさず夢日記をつけているのだが、未だ明晰夢は見れそうにはない。
家へ着くと、真っ直ぐにキッチンへ向かい、2lの鍋に水を注いでから着火する。
そして、それが沸騰するまでに、その日見たい夢を考える。とはいえ、ここ最近はいつも同じ夢だ。考えるまでもなく、今日もそれにしようと決めた。
それは、美人な先輩社員との社内恋愛をするという内容の夢だ。明晰夢を見ようと努力を始めるまでは、本気でその人との成就を目指していたのだが、今となってはそんな事は愚かな行為だったなと後悔している。
お湯が沸騰すると、生卵とじゃがいもをそれぞれ2個ずつ鍋の中に投入する。
ここ一年ほど、僕の食事はゆで卵と茹でたじゃがいもにマヨネーズを付けて食べる——その繰り返しだった。
どちらも好物というわけではないのだが、いつからか食事にお金をかけることに馬鹿らしさを感じていた。明晰夢を見ることができるようになれば、どんなものでも食べれるようになるのだから——そんなことを考えながら、鍋の中でコロコロと動き回る卵やじゃがいもを見つめる。
数年前の僕は、愚かだった。食事に不必要にお金を使い、現実世界での色恋を成就させようと必死になってしまっていたのだ。
明晰夢を見ることができれば、職場でどんな役職に着くことだってできるし、どんなものだって食べることができる。どんな女性と付き合うかだって、思いのままだ。そこは、僕が支配することができる世界なんだから。
思うようにいかない現実世界でもがく必要なんてなかったのに、そこに行き着くために数十年の人生を無駄なことで浪費してしまった。
明晰夢を見れるようになったら、これまでの人生で得ることができなかったものを全て手に入れよう——
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目が覚めると、そこはいつもの殺風景な部屋だった。
体を起こすと、頭がジンジンと痛む。また、同じ夢を見てしまったようだ。
僕の、輝かしきあの頃の夢を。