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【小説】あの夢をもう一度

大泉蒼子ーー。
その名前を忘れた事は、一度だってなかった。

それは葵が14歳の頃、夢で出会った女性の名前だ。
その頃の葵は周りの男子中学生たちと同様に、いやきっとそれ以上に、普通の“恋愛”というものに憧れを抱いていた。

その夢の中で、葵は大きなベッドの上で眠りから覚めた。
夢の中で夢から醒めるというのは手が込んでいて、その夢に現実味を感じたのはそんな要因もあったのかもしれない。
起き上がり部屋を見渡すと、それはいつも見慣れている葵の部屋ではなく、木目調の壁に囲まれた部屋にベッドが2つだけあり、窓から温かみのある朝日が差していた。
今思うと、昔両親と一度だけ泊まった山奥のペンションの部屋に似ている。

しばらく部屋を見渡すと、ギィッという音と共に扉が開く。
そこから顔をのぞかせているのは、葵と同世代くらいの(その頃はその髪型の名前は知らなかったけれど)ボブカットに黒縁メガネをした小柄な女性ーーそれが大泉蒼子だった。
「おはよ。よく眠れた?」
葵は、部屋をキョロキョロとみていた事になんとなく罪悪感を感じてしまい、今起きたように装った。
「うん」
「それなら良かった」蒼子は、顔がくしゃくしゃになるくらい大袈裟に笑った。「今日はどこ行こうか?」
「え?」
その女性が誰なのか、どんな関係性なのか、何もわからない葵はどんな顔をしていいのかわからなかった。
「私のこと忘れちゃったの?」今にも泣き出しそうな顔になって「大泉蒼子って言うの」と名乗った。
「葵君の家が火事で燃えちゃったからしばらくウチに住む事になったのも、忘れちゃった?」
「いや、まあ、何となく覚えてる……かな」
全く覚えがなかったが、悲しむ蒼子に同情し、嘘をついた。
「良かった」またくしゃくしゃと笑って、ベッドに腰掛ける葵の隣に座った。
「じゃあさ、私と付き合うって約束したのも、覚えてる?」
「え!?」
驚いて蒼子の顔を見つめる。メガネの奥に写る泣きぼくろがとても綺麗だった。
じっとその泣きぼくろを見つめる事に集中していたせいで、それが近づいてきている事に気づくのが遅れてしまった。そして、気づいた頃には唇に柔らかい感触を感じた。
唇をゆっくりと離す蒼子の頬が赤く色づいている。
「これで思い出した?」
何も言い出せずにいる葵の手を握り、蒼子は立ち上がった。
「ほら、デートに行こ。ディズニーランドがいい?富士急がいい?」
蒼子に引っ張られて立ち上がろうとしたところ、目覚まし時計の鳴る音が聞こえた。

2度目の目覚めに混乱しながら目を擦ると、見慣れた葵の部屋が目に入った。
そして、そこにはもちろん蒼子はいなかった。
泣きぼくろを思い出し悲しくなったのと同時に、自分が女性として生まれた事を思い出した。
きっと私の望む普通の“恋愛”をする事は出来ないと14歳にして悟っていた葵は、もう一度瞼を閉じる。
「もう一度、蒼子に会えますように」そう願いながら。