【小説】万年筆

 父が他界したのは、5日前のことだ。
 
 半年前に口腔癌を患わせ、さまざまな症状に苦しみながら闘病生活を行なっていた姿を見ていたため、それから解放されたことに僕はむしろほっとした気持ちで、父の遺影を眺めていた。

「これ、売ってきてくれない?」
 お通夜が終わり実家に到着し、ひと段落しようとソファーに座り込んだところ、母が長方形の箱を差し出してきた。
「何これ」
 それがなんだかもわからず、箱を受け取る。
 ボックスティッシュより少し小さいその箱は想像以上の軽さで、売れるようなものが入っているとは思えなかった。

「万年筆。お父さん、好きだったでしょそういうの」
「へー。……え、売るの?」
「うちにあってもしょうがないじゃない。埃とか被ったら安くなりそうだし、早いうち売っちゃった方がいいでしょ」
「でも……父さん、残しておいて欲しいかもしれないじゃん」
「それなら遺言の一つ書いて欲しいわよ。そんな立派なペンがあるんだから、なんでもいいから書き残してくれれば良かったのに」
 自分に何も書き残さなかった父への当て付けなのか、それからいくら言おうと万年筆を売るという母の意見は曲げられることがなかった。

 僕が物心がつく頃には父が握っていた万年筆の入った箱を手に持ち、『あなたの大切な筆記用具をお売りください』と書かれた看板の前に立つ。
 さっきまでは軽く思えたその箱も、実家の書斎に入るといつも聞こえた、背中を丸めた父が鳴らすシャッシャという音を思い出すと、なんだか重さを増したようにも思える。

 『筆記用具専門店「ウェルダン」』と書かれたドアを開けると、古びた店内に、万年筆をはじめとする筆記用具が所狭しと並んでいた。
 薄暗い店内を奥へと進み、レジの前に立つ。レジカウンターの奥では白髪姿の初老の男性が座っており、僕の姿に気づくとさっと立ち上がった。

「いらっしゃいませ」
「あの、万年筆を売りたいんですけど」
 男性は目線を僕の手元に移し、「かしこまりました。早速、お見せいただいてもよろしいでしょうか?」と、優しく問いかけた。
 僕は手に持っていた箱をレジカウンターに置く。抱える物を無くした両手が、やけに軽く感じた。
 男性がその箱を開けると、「なるほど、モンブランですか」と言ってから、目を輝かせているように見えた。

「年代物でここまで保存状態がいいのは珍しいですよ。相当大切にされてきたんですね」
「そうなんですか。亡くなった父の物なので、僕には価値があまり分かっていないんですよ」
「そうでしたか。……この仕事をしていると万年筆を見ただけで持ち主の方の性格がわかってきます。この万年筆の持ち主は几帳面で、思いやりに満ちた方だったんでしょうね」

 男性の言葉に、「そうなんですか」と驚いた。
 母を手伝おうとするも、皿をうまく洗えず怒られている父からは几帳面さを感じることができなかったし、僕が小さな頃から休日に家族サービスをすることのなかった父からは、思いやりも感じられなかった。
 僕の見てきた父は、趣味と仕事のみに誠実な人間で、思いやりという言葉からは遠く離れた場所にいた。

 男性は万年筆のキャップを開けて、驚いたような表情を見せた。
「失礼ですが、お父様が亡くなられたのは最近ですか?」
「まあ、はい」
「そうでしたか」
 寂しそうな表情を浮かべるその男性を見て、持ち主が亡くなってすぐに売りに出す事を責められたような気分になり、ほんの少しだけ罪悪感が芽生えた。

「では、亡くなられる直前までこちらを使われていたのですね」
 男性の言葉に、僕は耳を疑った。
 半年前から入退院を繰り返しており、万年筆を使っている余裕なんてなかったように思えた。遺言を残さなかったのもそのためだろうと僕は考えており、その事を伝えると、男性は「そうですか……」と言ってから握り拳を顎に当て、考え事をしているようだった。

「どうかされましたか?」
 僕が問うと、男性は徐に口を開いた。
「いやあの、万年筆をインクを入れたまま放置すると、インクの成分がペン芯からペン先の間で詰まりを起こしてしまうんです。ですがこちらは、中にインクが入っていますが詰まりを起こしていませんので、半年以上放置されているとは思えなかったので」
「そうなんですか?」

 僕は、亡くなる前の父の病室を思い出す。
 大切にしている物であったため、ベッドの横には着替えと共に万年筆が置かれていたが、抗がん剤の副作用のせいでスマートフォンのバーブレーションくらいに父の右手は震えていた。
「もしかして」
 僕の中に一つの考えが浮かんだ。
 父は、遺言を書いていなかったのではなく、それが見つかっていないだけなのかもしれない。

 病室には、着替えと万年筆のみで、書き込むものは何も置かれていなかった。
 もしかして父は遺言を書こうと万年筆にインクを入れたが、書き込むものがなく断念したのかもしれない。そうだとすると、全ての事に納得がいく。
 やっぱり何も書いていなかったかと下を向くと、万年筆の入っていた箱が視界の隅に入る。
 そうか、この箱もあの病室に置かれていた。

 僕は急いで箱を開けると、さっきまでは気づかなかったが小さな紙切れが折り畳まれ入っていた。
 それを開くと、震えた文字があり、一字一字噛み締めるようにそれを読んだ。
『拓人へ まあがんばれ』
「どこが几帳面で思いやりに満ちた人だよ」
 そう心の中で呟き、僕は笑みを浮かべた。