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【小説】結婚

恋人がシャワーを浴びている音を聞く、この時間が私は苦手だった。
一人暮らしの自宅なのだから誰に見られる心配もないのに、下心を隠すために、これから行う行為を意識してない姿を演じてしまう。
明日は資源ゴミの日だからペットボトル出さないと。明日のお米研いだっけ。そんなことを考えようとしても、結局は玉城悠のことを考えている。
座っていたソファに横になり、先程行ったレストランで、デザートが運ばれて来る前に聞いた悠の言葉を反芻する。
「俺と結婚してくれない?」
5歳も下の悠のその言葉に、一度は心を躍らせた。
ただ、その言葉に即答できなかったのは、2年前に一度だけ見た写真が脳裏から離れないからだ。
ソファに転がっていたスマートフォンを拾い、画面ロックを解除する。
半年ほど連絡をとっていなかった友人とのトーク画面を開き、『希が昔、結婚詐欺あったって言ってたじゃん?その相手の写真ってあったりする??』という未送信のメッセージを見て、確か悠と付き合うことになってからこのメッセージを作成したよなと思い出す。

「ねえ、シャンプー切れてるみたい」
シャワーから上がった悠が、腰にバスタオルを巻いただけの状態でやって来る。
鍛え上げられた上半身が露わになり、膨らんだ大胸筋や上腕三頭筋に目がいく。
その姿を見るといつも、同僚の女性が「男って30前に一度は筋肉鍛え出したりするよね」と言っていたことを思い出す。そんな通過儀礼を、素直に受け入れる悠に愛しさを感じる。
ホッとした気持ちを親指に乗せて『送信』のボタンを押し、ソファに座り直した。
「そっか。じゃあ買っとく」
「ありがと」
私の隣に座り、さも当然かの如く唇を近づけて来る悠の姿が目に入り、瞼を閉じる。
彼は、シャワーを浴びた後、どうせすぐ脱ぐにも関わらず律儀にいつも寝る時と同じ格好をする私を、どう思っているのだろうか。
スマートフォンの着信音が鳴り、目を開けると悠の顔が目の前にある。
「ちょっとごめん」
スマートフォンを拾い画面を操作する私に、悠は甘えたような声を出す。
「せっかくいいところだったのにー」
「ごめんね。仕事の連絡かもしれないから」
先程メッセージを送った友人とのトーク画面を開くと、一枚の写真が送られてきている。
その写真を拡大する必要もなく、それが大学時代の友人の希と、悠に似た男性のツーショットである事は分かった。
そして、希が『結婚を申し込まれてから、家族が病気とか結婚費用とかいろんな理由つけて200万円くらい取られた』と泣きながら話していた事を思い出す。

「どうしたの?そんな怖い顔して」
悠の声で、はっと我に帰る。
スマートフォンの画面を急いで閉じ、また頭の中で反芻する「俺と結婚してくれない?」という言葉に、さっきまではなかった恐ろしさを感じた。
すると、体に覆い被さる温もりを感じ、少ししてから悠に抱きしめられたのだと気づく。
「大丈夫?」
その震えた声が、私には嘘だとは思えなかった。
そして、果実と花の匂いが混ざり合い、不快だがどこか懐かしい香りを感じる。
「そうだこれ」私は瞼を閉じて、嗅覚に集中する。「この香り、何だか落ち着くんだよね」
「いつも言うねそれ」
悠の優しい声に、笑みが溢れる。
シャワーを浴びた後にフローラルの香水をつけると、シャンプーと香水の匂いが混ざり合いどちらの良さも殺してしまうことを、悠は知らない。
それでも、フローラル系の香りは女性ウケが良いと信じてやまない悠は、洗面所に必ず香水を持っていく。
私に好かれようとするその間違った努力に、悠の真っ直ぐな性格が滲み出ている。そんなところに、私はいつも愛おしさを感じていた。
先程スマートフォン越しに見た写真を、頭の中でビリビリに破り捨てる。
「結婚しよ」
「え?」
「さっきの返事してなかったでしょ?結婚しよっか」
「マジ!?やったー」
悠が強く抱きしめてくるので呼吸が苦しくなったが、「ここで死んでもいいかな」と思えるくらいに私は騙されていた。