【小説】傷心旅行?
「希ちゃん、明日以降の業務の引き継ぎ資料送っておいたから、目通しておいてね」
隣の席に座る希が、驚いたような表情を見せる。
「あ、ひとみさん、明日お休みでしたっけ?」
「そ。明日から1週間休み」
「そうなんですねー。旅行ですか?」
「うん。北海道にね」
「へーいいですね。彼氏さんとですか?」
「や、1人。別れたんだよね、この前」
『彼氏』という、自分から発した言葉にふと懐かしさを感じる。
この前と答えたが、恋人であった俊介と別れたのは今から3ヶ月も前の事だ。
学生時代からの付き合いで、5年近い交際期間ではあったが、俊介の「別に好きな人ができた」という一言でその関係性は解消された。
「え、そうだったんですね。じゃあ、傷心旅行的なやつですか?」
「うーん、まあ、そうっちゃそうかなー」
正確には、予約を申し込んだ3ヶ月前までは傷心旅行だったのだが、今は違う。
何をしていても俊介と過ごした頃を思い出してしまい、その苦しみを旅行でもしたら癒やされるかと思い立ち旅行を計画したのだが、夏休みシーズンというのもあってすぐには宿の予約も取れず、3ヶ月先の予約しか取ることができなかった。
ただその間に、俊介がひとみと付き合っている頃から別の女性と頻繁に遊んでいたことを知ったこともあり、俊介に対する未練は一歳無くなってしまっていた。
つまり、3ヶ月の間に、明日からの旅行は傷心旅行からただの旅行に成り下がってしまっていた。
「何?希ちゃん、旅行行くの?」
背中越しに聞こえたその声に、ドッと気持ちが重くなる。
振り返ると、明らかにサイズの合っていないくたびれたスーツを着た尾崎が、いつの間にかひとみの背後に立っていた。
「ああ、私じゃなくて、ひとみさんが。ですよね?」
「まあ、うん」
「そうなんだ。彼氏と?」
希に同じ質問をされた時は感じなかった嫌悪感を抱きながら答えようとするひとみを遮り、希が答える。
「私もそう思ったんですけど、実は傷心旅行みたいです。ですよね?」
希の向ける笑顔に、明らかに引き攣った表情しか向けることはできなかった。
こんなことだったら単なる旅行だと言えば良かったと後悔しながら、尾崎の表情を覗き見る。
常にうっすらと笑みを浮かべている尾崎の、ひとみに向けて隠さずに曝け出す下心に辟易したのは一度や二度ではない。
この部署に配属されてから、ことある毎に「今日、どう?飲みに行かない?」と誘われ続けたり、「P.S.ところで、彼氏いるの?」と業務のメールの末尾に書かれていたこともある。
最近はその下心が希に向きつつはあるが、それでも『傷心旅行』という単語は尾崎には一番聞かれたくなかった。
「あー、そうなんだ。楽しんできてね」
尾崎があっさりと答える。
てっきり、「いつ別れたの?」や「じゃあ彼氏募集中か今は」や、いっそ「俺も一緒に行っていい?」なんて言われると覚悟していただけに、拍子抜けしてしまう。
「ところで、希ちゃんは彼氏とうまく行ってるの?」
「はい。そろそろ一緒に住もうかって話してるんですよね」
「そうなんだー。じゃあ、希ちゃんが一人暮らしのうちにお家お邪魔したいなー」
「もー、セクハラですよー」
「ごめんごめん」
希と尾崎のやりとりをうっすら聞きながら、頭の中を整理する。
つまり、この尾崎にさえ、相手にされなくなってしまったのか。
好きでもない、むしろ嫌いな相手に振られてしまったこの事実に、頭がずしんと痛くなる。
この悲しみをどこかにぶつけないと……とまで考えたところで、ひとみはあることに気づいた。
明日からの旅行、結局傷心旅行になりそうだな。