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【小説】直子

 学校へ向かう電車に乗りながら、スマートフォンを操作しLINEの友達リストを一通り確認する。これは、直子が高校に上がってからの習慣となっている。

 今日は、名前を変えた同級生はいなそうだな——そう一息ついてから、電車内の電光掲示板に目をやると、人気俳優の改名が『役作りのため』という一文と共に報じられていた。しかし、周囲を見回してみても、その掲示板に目を向けているのは直子の他にいないようだ。
 5年ほど前から、プライバシー保護のため、病院や学校等の公共機関にて、本名ではなく仮名を使用することが公に認められることとなった。それ以降、若者の間ではファッション感覚で仮名を変える事が当たり前になっているので、改名のニュースになど誰も興味を持たないのだろう。

 教室に入ると、窓際の席に座っているチズ子とノブ江が「おはよー」と手を振ってきたので、直子も手を振りかえす。
「一義、名前変えたらしいね」
 2人の場所に近づき、先ほど見たニュースを伝えると、「へー」「なんて名前?」とあまり興味もなさそうに言った。
「ダイ介だって。ダイがカタカナ」
 名前の流行はこまめに移り変わり、少し前まで漢数字を使う名前が流行っていたと思ったら、現在はカタカナと漢字を掛け合わせた名前が流行している。
 チズ子とノブ江も、インフルエンサー達がこぞってカタカナと漢字を掛け合わせた名前に改名をし始めた頃、それに倣って今の名前に改名をしていた。

「へー」
「なんかフツーの名前だね」
「うん。電車乗ってる人も、全然そのニュース見てる人いなかったもん」
「そりゃそうだよー」
「てかさ、直子はいつになったら名前変えるの?」
 チズ子の質問に、こんな話題を振らなきゃ良かったなと後悔した。
 こういった会話の流れになることは想像ができたはずなのに、どうしてそこまで考えが至らなかったのだろう。

「ホントそう。直子なんて名前、流石にキラキラネームすぎるって」
「でも良い名前が思いつかなくてさー」
「たかが名前なんだから、そんな気にしなくていいのに」
「まあそうなんだけどさー」
「直子って何座だっけ?」
 ノブ江の急な質問の意図が分からず、「魚座だけど……どうして?」と聞き返すと、ノブ江はスマートフォンを操作し始めた。
「占いでさ、今日のラッキーネームとかあるじゃん。とりあえずそれに改名してみたら?——あ、今日の魚座のラッキーネームは、ミズ樹だって。え!良いじゃん!」
「ほんとだ!今日のメイクの感じにも合う名前だし、良いんじゃない?ミズ樹」
 困惑する直子をよそに、ノブ江が立ち上がり「はいちゅーもーく!」とよく通る声で教室を見渡しながら言う。
「直子改名しまーす。今日からミズ樹だからね。間違えないように」

 素直な子に育って欲しい。
 そう願い直子と名付けてくれた母は、直子が10歳の頃に他界した。
 本名を名乗ることなんて時代遅れだなんて分かっているけれど、反抗期も思春期を迎えることもなく二度と会う事のできなくなった母との繋がりを、唯一感じることの出来る、直子という名前を大切にしたかった。
 だが——

「じゃあ改めてよろしくね、ミズ樹」
 さも良いことをしたかのように、ノブ江は満足そうに微笑みかける。

 きっとこの改名を拒めば、このグループから外され、クラス内で居場所を失うだろう。もしそんなことになれば、これから残り1年半の学校生活は、苦労の絶えない日々となる。きっと、母もそんなことは望んでいないだろう。
 そう自分に言い聞かせ、ミズ樹は、その名前に込めた願いも含め直子という本名を捨てることを決意した。
「うん、よろしくね」