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【小説】マトリョーシカ

数週間前までは使い慣れていたはずの鍵を取り出すと、たくさんの景色を思い出した。
引越し業者が荷物を運んで来る時、慶太の荷物の少なさに驚かれた事。ドアを開ける前からわかるカレーの匂い。
ただし浮かんでくるのは、恋人との同棲という事実に浮き足立っていた頃と違い、白黒で味気のない景色だった。

鍵を鍵穴に差し込み、開錠する音が聞こえる。
背中に背負ったギターケースがぶつからないよう少しかがみながら、ドアを恐る恐る開く。
鉢合わせをしないよう、この家の住人であり元恋人である恵が不在の時をあえて狙ってきているのに、なんだか忍び込んでいるようで罪悪感を抱く。
電気の消えた見慣れた室内に懐かしさを覚えた。

目的のものを探そうと部屋を見渡したが、慶太が家を出た時と変わらず、それはテレビの横にあった。
テレビの横に置かれた、スカーフ姿の若い女性が描かれたマトリョーシカ人形を見ると、それを慶太に渡した時の恵の笑顔を思い出してしまう。

「はい、これお土産」
スーツケースを片手に旅行から帰宅した恵は、玄関で出迎えた慶太にそのマトリョーシカ人形を差し出した。
「え?何これ」
「マトリョーシカだよ。開けても開けても中から人形が出てくるやつ。知らない?」
「それは知ってるけど……」
恵は「あっ」と声を出してから、誇らしげな表情を見せつけた。
「もしかして知らないの?マトリョーシカって、箱根が起源って説もあるんだよ。だから箱根のお土産として間違ってないんだからね」
正直なところ、旅行先さえ把握していなかった慶太の疑問はそこではなく、こんなものを買ってくる恵の趣味を疑っていたのだが、そのマトリョーシカ人形を差し出す恵が満面の笑みだったので、大人しくそれを受け取る事にした。

「そうなんだ。ありがと」
「めちゃくちゃたのしかったよー。箱根」
「へー」
恵はコートを脱いでから、ソファに腰掛けた。
「今度は一緒に行こうよ。友達と行くのも良いけど、けいちゃんと一緒に箱根行きたいなー」
今回のように大学生時代の友人と旅行に行く事は何度もあるようだが、いつも「ゆうちゃんはいっつも自分を卑下して慰められ待ちする」とか「麻美は自分の意見が通らないと機嫌が悪くなる」等の陰口を言っている相手と、なぜ一緒に旅行に行く気になるのか慶太にとっては不思議だった。

「うん。行こっか」
「ホント?やったー!いこいこー」
適当な相槌に笑顔を見せた恵の望みは、それから一緒に暮らした2年間で叶うことはなかった。
フリーターで、稼いだ少ないお金をバンド活動に主に費やす慶太は旅費など算出できるはずもなく、かといって恵のお金で旅行に行く事も慶太のプライドが許さなかった。
「バンドが売れたらどこでもつれてってあげるよ」とやってくることのない未来を提示し、一緒に旅行へ行こうとねだる恵をかわし続けた。

「けいちゃん?」
テレビの横にあるマトリョーシカ人形を持ち上げた時に、聞き慣れた声を背中に感じた。
振り返ると、パジャマ姿の恵が寝室の扉を開けている。
「あ、いたんだ」
「有給取っててね。……どしたの?」
「ああ。服とかは全部送ってもらってたけど、その中にこれだけなかったから」
マトリョーシカ人形の正面を恵に向けた。
「あーっ、忘れてた。ごめんごめん」
「それと、合鍵。これも返しておきたくて」
左手で握りしめていた鍵を、机の上に置いた。
カシャンという軽い音が、「元恋人に合鍵を返す」という事の意味さえ軽くしているように思えた。
「そっか」
「じゃあ」
立ち去ろうとする慶太に、恵は心配そうな表情を向ける。
「ちゃんとご飯食べてる?」
「うん」
「家は?どこに住んでるの?」
「今はとりあえずメンバーのとこ、泊めさせてもらってる」
「そっか。……あのさ、別れる事にはなっちゃったけど、でも別にけいちゃんのこと嫌いになったわけじゃないから。困ったことがあったら何でも言ってね。出来る限り、何でもするから」
恵の向ける真剣な表情に、実家に帰省した時の母親のお節介に対する煩わしさを思い出す。
その表情を見つめ返すこともできず目を逸らした先に、慶太が住んでいた頃には置かれていなかった灰皿を見つけた。
「もう連絡する事はないだろうな」と思いつつ、恵に最後の嘘をついた。

「ほんと好きだったよ。じゃあまた」