【短編小説】クリのキヲク (1)

 体中の節々が痛い。熱は40度ぐらいありそうだと思ったけど、確かめるための体温計は、いまここにない。

 ここは青森。いま俺一人が、テント内のシュラフの中でうずくまっている。朦朧としながら、やばいな・・・と呟く。
 とにかく、真っ暗闇だった。目をあけているのか閉じているのか、わからなかった。
 遠くにボウっと灯りがみえる。蝋燭の灯なのか、焚き火なのかわからない。あそこに行きゃなきゃと、ただ思った。

 青森県の三内丸山町の発掘現場で、直径1メートルのクリの柱が6本検出されたと報道されたのは、1994年のことだった。

 その6本の柱穴は間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルですべて統一されていた。作られたのは、いまから5500〜4000年前の縄文時代だ。
また、遺構の近くにクリだけの林があり、栽培していたことも判明した。
それだけではなく、この地で採掘されない黒曜石や翡翠も同じ地層から出土した。当時、海岸線は現在より内陸にあり、丸太舟で運ばれ、各地と貿易もしていたのだ。

  このニュースは衝撃的だった。歴史のことはあまり詳しくない。学校で習った程度で、たいして成績も良くなかったが、興奮した。
 だって、縄文時代は狩猟採集中心の生活って、授業で教わらなかったか? 農耕がはじまった弥生時代ならまだしも、三内丸山の縄文人は定住し、栽培し、さらに貿易をして、大型施設がつくられるようなコミュニティがあったのだから。
 

横浜のニュータウン計画がある地域で生まれ育った。小学生の時、私鉄沿線の駅周辺は、すでにベッドタウンとなりつつあったが、駅から少し離れると、まだ田畑が広がっていた。

 ニュータウン計画地域も見渡す限りの原っぱで、歩けば猫のように身体中に雑草くっついた。近くにはザリガニが釣れるような、小川もたくさんあリ、放課後はミミズをエサに日が暮れるまで遊んだ。

 マンションや施設を建てる前には、必ず事前に発掘調査をする義務があり、1970年代のニュータウンは、建設ラッシュならぬ、発掘ラッシュだった。

 中学2年生の夏休みに、社会科の初老の先生が「発掘してみるか?」と誘ってくれて、友人と二人でついて行った。
 もちろん初めてなので、まずはスコップ(発掘現場では移植コテと呼んでいた)の使い方を教わる。
もうすでに数十センチ掘り進められたいた住居跡の中に入り、どこになにがあるかわからないので、そーっと地表面を削るように、ていねいに土を剥がしていく。
  炎天下のなか、朝から無心になって発掘作業をした。帽子をかぶってくるように言われていたが、野球帽だったので、ランニングシャツから出ていた肩や首筋が真っ赤に日焼けした。暑いし、日焼けが痛かったけど、土器を見つけるのは、宝探しのように楽しかった。
素焼きっぽい何かの破片を見つけては、それをいちいち先生に確認をした。

 「先生、見つけた!これはいつの時代の?」

「これは弥生時代の土器だよ。すごいな!」


 帰りに「頑張ったから特別だよ」と、先生が連れて行ってくれた喫茶店のケーキが美味しかった。参加したのは一日だったけど、鮮烈な思い出となった。

  何千年も前にここに人が住んでいて、生活していた。俺の生活の跡は、何千年後の誰かと共有できるのだろうか?

 そんなロマンチックを味わいたく、社会人になってからもガイドブック片手に史跡めぐりをするのが楽しみだった。

 三内丸山遺跡をこの目でみたい・・・6本のクリの木を使って、大型建物のレプリカが完成したというニュースを知り、いてもたってもいられなくなった。

(つづく)

#小説 #連載中

追記:タイトル変えました(2015/2/16)

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