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アウシュビッツ・ビルケナウの旅記録

今回は、アウシュビッツの話をしますが、前情報入れないで行くのも一つの選択肢であると思います。そのほうが感じるものが多い人もいるかもしれないと。だから、私は私の旅を振り返って書くし、できれば、まず現地に足を運んでみてほしいです。


大学の卒業旅行は、まず今まで行かなかったところに行こうと決めていた。その中でも、ひとつ強く行きたいところがあった。アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所。いつ行くのかといったら今しかないと思った。だから、卒業旅行のメインはアウシュビッツのあるポーランドに決まった。

中央ヨーロッパにハンガリーから入り陸路でスロバキア、ポーランドに北上する。ポーランドではクラクフを拠点に、3泊する。


アウシュビッツに行く日の朝は、びっくりするほど晴れていた。冬の、さっぱりと綺麗に晴れた日。私は、強制収容所にむかう。
クラクフのバス停で、オシフィエンチム行きのチケットを買いバスに乗り込む。チケットとバスの仕組みがしばらくわからず、よくわからないままに、行き先があっているチケットを持っていることだけを言い分に、バスに乗り込む。

行き先以外合ってるか不明、バス

しばらく寝ていると、バスは風景の違う街にたどり着く。バスの行き先と同じ、"Oświęcim"と書かれた看板。

ロビーについて、予約したツアーを待っていると、ロビーの中に耳慣れた響きのしゃべり方。日本人の女性と出会う。思わず、日本語でしゃべりかけてしまう。誰も知らない異国で出会う、同邦の人。それだけでなぜかほっとしてしまう。彼女と一言二言しゃべって、そこでそれぞれのツアーに招集がかけられ、ぺこっと会釈してその場を離れる。


まずはアウシュビッツから。おなじみの門をくぐる。ガイドの方が話してくれる凄惨な話。ユダヤ人だけではない、ポーランド人、ジプシー、その他様々な人々が、実際に"選別"され、過酷な労働に利用され、"洗われて"行く(英語では"sent to the shower"と解説されていた。毒ガス室のこと)。
展示されている、大量の靴、靴、靴。髪の毛。服。写真。人間の扱いとは思えないほどの食事や労働や住居の記録。そのどれもが、見て「なんて酷いんだろう」と感じるべきであると頭は考える。
でも、正直なところ、それらを見ていても、実際はうまく認識できない。今聞いた話と、そこにある実物とが、なかなかつながれて解釈されない。一気に受け止められないのだ。だから、そのような遺品などを見て、ある種その場では何も感じられない自分にびっくりした。呆然としてしまう。展示を見て話し合っている夫婦の会話に、ふと気を取られる。そこで、なにか考え始める、つながるきっかけを得るような気持ちになる。


アウシュビッツの収容所の建物を使った博物館を見終わると、少し歩いて、別の収容所 ビルケナウにむかう。むかう途中には、途中まで伸びた線路がある。線路の先は、途中から切れていて、続きがない。「帰りの便がない列車です。人々が運び込まれます。各地から」ガイドの方の声は、静かで、感情を出さず、しかし強さがある。

ビルケナウは、アウシュビッツの方と違い、展示物を置くショーケースが立ち並ぶよりは、収容所そのものの構造をあらわしている。700人もの人が押し込まれて生活していた馬小屋。木でできた台、その狭い隙間の一つの段に何十人もが寝る。無論横になるには狭すぎる。衛生環境も悪い。そのなかで病気になる者もいた。そこに収容された人々は、生き延びるために弱った者を引きずり下ろした。いつ死んでもおかしくない。そして、支配者たちにとっては、生きようが死のうが、当面どうでも良い。

「あなたたちには、他人を引きずり下ろしてまで生きようとした、人々をジャッジしないでほしいのです。人は、必死に窮地を生き延びようとすれば、どんなに酷にもなれるからです。それは、同じ状況におかれれば、あなたたち自身も同じかもしれません」


ビルケナウを軽く回ると、そこでツアーの時間自体は終了だった。急に一人になる。だだっ広いビルケナウの敷地の、空の下にぽつんと立っていると、妙な気分になってくる。

その日はあまりにも空が澄んでいて─雲一つないわけではないけど、綺麗な青色で─風は爽やかにそよいでいて、とにかく、いいお天気の日だったのだ。真っ青な空の下に、積もった雪がきらきらして、たくさんの人を強制収容したボロボロの馬小屋が立っている。ビルケナウは、びっくりするほど開けたところにあり、塀もない─ぐるりと数周、電気が通っている鉄線の他には。

勝手なイメージ、私の中で強制収容所はどんよりとした曇り空だった。それかやむことのない雪とか。希望も全く見えないようなどんよりの空が似合うんだと。ただその日のお天気はあまりにも、綺麗だったものだから、私は拍子抜けしてしまって─で、そこで初めてわかったのである。収容所には、どんよりした曇の日も、雨の降りしきる日も、吹雪の日も、綺麗なお天気の日も、春風が吹く日もある。収容されている人だってそのような普通な天気の下で過ごしている。そのことが、逆にひどく希望を奪うことにもなるだろう。こんな晴れた日、こんな環境から自らの命を断つために、電気ワイヤーに飛び込んでいくようなこともあるだろう。

周りには壁がない。ひと触れで命を落とす電気ワイヤーしかない。

ツアーが終わって、ひとり晴れた空の下、一通りのビルケナウの敷地を回った。大きな石碑があった。ぐるっとして入り口に戻ってきて、私は"帰り道のない"線路を踏みしめて、かつてその道を渡らされた人々のことを、ここに運ばれてから帰らなかった人々のことを、静かに考えていた。

私は、今生きている者として、このような目に運命が違ってたまたま遭わなかった者として、歴史を知るひとりとして、何が彼らと話せるだろうか。ナチスの当事者でなくとも、それを容認し見過ごしてきた歴史の先に生きる人として、何を言えばいいだろうか。

「─ごめんなさい」
それしかなかった。それ以外何を言えばいいのか、なにか言う資格があるのか、そもそも謝る資格があるのかもわからなかった。そのときに、彼らから返ってきた(と思った)言葉は、赦しでも慰めでもない。
「私達、皆同じ人間なんだよ、そうでしょう」
その一言だった。それ以外何も話してくれなかった。

静けさ。何者かわからない、作られた人工的な静けさ。それが収容所で感じた一番の感覚だった。

見終わってお腹が空いたので、近くのフードコートで遅めのお昼を食べる。フードコートは混雑している。なんでこんなときにもお腹が空くんだろう、と思った。

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