日にち
いつだったか、岩手の山奥に住む母の友人の家にお邪魔したことがある。屈託のない笑顔を持つご夫婦で、いかの刺身をつまみながらたわいもない話をし、私は初めての日本酒を口にしてそのままこけっと寝てしまった。田舎の夜は冷えたけれど、ストーブは暖かくて。そのあと、朝起きたら2人の自家製パンを食べ、落花生を煎った。ほっこりしていた。その日のことは鮮やかに覚えているのに、今「あれ何年前のことだっけね」というと、私も含め4人のだれひとり覚えていないのだ。なんだか少し可笑しくなってしまった。
私達はことあるごとに記録をつける。それは、SNSへの投稿だったり、写真だったり、様々だけれど、どの思い出にも知らぬ間に日付がついている。私は小さい頃、旅行に行くたびに日記を書いていた。それを見るとどこに何をしに行ったのかもすべて分かるのだ。いまや、Facebookやinstagramなどの自分の投稿に留まらず、検索履歴やGoogle mapの履歴を見れば、そこには自分で意識していない足跡がたくさん記録されていて、思い出すまでもないと思わせるのだ。
記録が増えていくたびに、思い出が増えていくような気がするのだろうけど、実は日付ややったことよりもその日の感情とか思いを覚えている日は意外と少ない。幸せな日ほど頑張って思い出して漸くいろいろでてくるのであり、記録はいわばそのメタデータでしかなくて、本質ではない。綺麗な写真が撮れても、そこからふつふつ再び沸き上がる思いがなければ、それは同じ場所や人を撮った他人のギャラリーと同じだ。
本音を言えば、ある日冒頭のように、ふっと楽しかった日々のことが思い出されて、あれあれはいつだったっけねと、話したり、日記を繰ってみるくらいがちょうどよく、面白い。その印象が、メタデータなしにも浮かんでくるくらい、覚えているものだと言うことだから。
ほんとうは、たわいもない、特別でもないでも大切な時間ほどそういうことを覚えていないものなのだ。久しぶりに家族が揃ったあたたかい夕食。ゼミのあと通った居酒屋。何気なく入った路地の面白さとわくわく。落ち込んだときに先輩が淹れてくれたコーヒーの香り。
今日隣にいる君とも、写真や投稿、文字では表しきれない、残しきれない思い出が、今日残っていきますように。この素敵な思いを、覚えていられますように。そして、いつの日か、あんな日がどこかにあったねとまた笑いあいたい。