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ありきたりな景色/白紙の辞書

第一章 ありきたりな景色

即答

「いいよ」

私の目をまっすぐに見つめるその青年は、心底愛しているという表情で優しく答えた。そのあどけなさの残る年齢相応の瞳には、けれども奥ゆかしさはなく、またいやしさもない。いや、奥ゆかしさやいやしさがないのではなく、まだそれを得ていないのだ。「若い」という言葉で事足りるかも知れないが、国語もろくに勉強してこなかった小娘にとって「若い」という言葉は何の意味もなさない。そんな露とも知識を持たない高校を卒業して3年ばかりが過ぎ、学校にも通わず、たかが海の家でアルバイトをしている小娘である私が全力で好きを表現した人なのだ。

よくある話だ。初夏の江ノ島の人混みの中で、これでもかと汗のにじむ不快でありつつも何故か人が理性を忘れる、だが(いや肯定かも知れぬない)本能が剥き出しになるような暑さの中だった。
言い訳ではない、そんな中で再会した高校の後輩であった彼は、高校の頃と比べれば一層誠実になっていたそのギャップもあいまみえて魅力的に思えたのかも知れない。

付き合ってすぐではあった。何かそれこそその時にたまたま来た波に乗るような、けれどその波を選んだのは私なのだから(若い私は責任と言えたのだろうか、くしくもその時はあいまいなものであって)、良心もなにもなくただその時はそれが私の全部だった。ただ蒸し暑い夜に身を任せた。

かくしてこれまで経験したことのないくらい体調が優れなかった私は、ほぼ恐れが先行するもわずかに期待を感じながら夕焼けの映える病院へ赴いた。

やはり妊娠していた。

青年の顔を思い出す。彼を信じきれない気持ちが芽生える。なぜかこの時になって初めて不安を感じる。帰路でわずかに抱いていた期待が残暑の残る初秋の黒い海に沈む。

これは直接つたえなければいけないことなのだから、まずは会わないといけない。この時ばかりは機械的にかつ感情のいらないメールが心底心強いものであったけれど、会えるのが二晩後と分かると、胃に魚の内臓を詰め込まれたような、海の家でバイトしたあとの宴による二日酔いとは違う、大変つまらない気持ち悪さを2回繰り返さねばならない苦労をあきらめの気持ちで飲み込んだ。

月に数度、家の近くのフアミリーレストランでお決まりのオムライスとポテトを2人でシェアし、何気ない話をして夜遅くに帰る。そんな無駄に時間を過ごすのが、お金のない私たちにとって数少ない贅沢なデートであった。けれど、そんな時間がなんと楽しく幸せだったか。窓から見る夜景は全くと言っていいほど、特段の景観美はなかったが、向かいの工場のシルエットはさながらシンデレラ城のそれと同じように感じていたのかもしれない。

その日は平静を装いいつも通りの注文をしたが、話ははずまない。店内には今流行りのラブソングが流れている。しっとりとした温かみのある、どこかの街で出会った2人を描いた、全てを包み込むようなやさしい愛の唄だ。きっと店内の音など聞こえていないであろう、緊張の見られる彼の表情は一層平静などというものは作れず、私のこの二日間の不安をさらに掻き立てた。

「何があっの?」
「病院に行った」
「子供ができた?」
「うん」
「どうしたいの?」
「産みたいと思う」

その想いを告げた瞬間、なぜだか分からないが、涙がこぼれた。話ができた安心感なのか、彼の答えに対する不安なのか、はたまた彼に対する罪の意識なのか。それでも、涙とともに気持ちが晴れていく感じはあったのだ。

即答であった。
悩む素ぶりも見せずに答えてくれた。
そこからは早かった。真正面から、そして誠実に私たちの人生について、想いを話してくれた。
そのような早い展開に対してまったく疑念を持たず、今後のスケジュールやらなにやら、矢継ぎ早に決めていく彼は大変頼もしいものでした。

食事をすませばいつものように家まで車で送ってもらい、いつも以上に将来への期待をし、その日を終えた。帰り際に彼が言った「幸せになろうね」という言葉に身を寄せながら。

父は国鉄のなんということのない従業員でありながらも、勤勉かつその優しい人柄で周りからは一際信頼されているような人だ。怒られた記憶の数は片手で数えられるくらい温厚である。母はそんな父を主婦として支えたなんということのない一般的な母親像をそのまま絵に描いたような人だ。裕福な家庭ではなかったが、その分両親は愛情を注いでくれた。残念ながら同級生に比べて十分な教育を受けられてはいなかった分、大学進学などというものは中学生の頃から選択肢にはなかった。それでも、愛のある大変幸せな家庭で、今も私にとっては大切な家族だ。

そんな両親と4人で会った。およそスーツなど着たことなどない彼が頑張って挨拶している姿に目を細めながらも、両親の反応にはいささか予知できない恐ろしさを感じていた。全く良い両親であって、一言目から家族を大切にしてくださいだとか、子供の面倒は手伝うだとか、彼の学業や仕事の心配をしたりだとか、テレビに出てくるような反対する親の情景はなかったのである。両親と彼が食卓を囲んでおり、エビフライの陳列が川の字のように見えたのは私だけか、酒のまわり出した父がこんな状況のなかでも彼をいたく気に入っている様子も、母が恐縮する彼にお酌をする光景も、誰もみていないテレビの野球中継も、これが今後あたりまえの情景になる幸せを感じていた私はお上品に笑って見ていた。

まだ夏の名残りか、ゴミというゴミが気味の悪い斑点模様となり浜辺を賑やかしている。今日も彼の車で夕飯に向かっている。まだ彼のご両親とは会っていない。
彼の顔がこんなにも疲れていたことがあっただろうか。それでも強がるふりをするなんと彼の誠実なことか。私のことを気遣う言葉をならべ、アルバイトで貯めたているお金がいくらあるだとか、学校を辞めたあとの就職先はいくつかあって、仕事に困ることはないだとか、将来の明るい話をしてくれている。私も最近の体調や、病院で撮ったエコー写真を彼に見せたり、またその写真には大変感動してくれて、その時だけはレストランの一角がひと際にぎやかになるのでした。

「まったく僕の話を聞いてくれない。お相手の方の将来もあるのだから、今回だけはあきらめて、その代わり絶対に幸せにしなさいだとか、正論を並べ立てて。説得にはまだ時間がかかると思う。でも、絶対になんとかするからもう少し待ってくれ。最悪は家を出てもいいと思っているから。」

彼だけに彼の両親との話し合いを任せていることに、罪悪感を持ちながらも、少しふくらみかけたお腹に手をあて、「大丈夫だからね」とつぶやく。
半分ほど残っていたオムライスとポテトは、もう冷めてしまっていた。

それから1カ月、まったく変わらない状況、彼からの報告も進展はなく、私の身体だけが着々と親になる準備が進んでいる。
久しぶりにドライブに出かけた。身体に障らないようマフラーを巻いてくれるし、寒そうにしていれば暖かい飲み物を何も言わずに持ってきてくれる。はたから見ればまるで新婚夫婦のように暖かい二人だったであろう。実際に私は本当に幸せでしたし、のどにつかえている魚の骨さえなければ、木枯らしさえも話し相手にできたのです。

その日は私の実家で食事をした。私の両親は、この変わらない状況について私に聞いてくることはあっても、彼には一切問いたださない。すでに全力で協力することを腹に決めているのだ。テレビではクイズ番組が流れ、父がああでもないこうでもないとつぶやき、彼がそれにうなずく。母と私は他愛のない話で盛り上がり、悠々閑閑と時が流れる。

「父が会いたいと言っている。」

食後に突然彼が言った。背筋が伸びた。いよいよなのだ。けれど彼曰く、お父様の考えはまったく変わっていないようで、ようは私を説得したいという意図があるようだ。これまで彼にばかり任せてしまっていたが、その罪悪感からの解放、そして家族の幸せを確定させるチャンスが来たのだ。もちろん怖いものであったし、もちろん緊張はしていた。だが、ようやく前に進める可能性を感じた私は、きっとスポ根ドラマのエースのように、明るく前向きに正面から当たればきっとうまくいくと信じ切っていたのだろう。もう誰も観ていないテレビでは、クイズ番組は終わり、歌番組が始まっていた。

私は従来晴女だ。その日も空は青く抜けていた。初冬にしては暖かい日だ。
高校のころ一度だけこの家には来たことがある。大きな庭のある、この時代には珍しい洋館風の家だ。お屋敷という言葉の方が合っているのだろう。大きな玄関は寂しさのはびこる氷の床であるかのように、冷たくも美しい造りをしていた。
彼にスリッパを出してもらい、リビングの大きな扉を開けると、おそらく40畳ほどあるであろう大きな部屋に、一人座っている男性がいた。精悍であり、きっといわゆる脂の乗りきった強い男であるのだろう。実業家というくらいしか知らないこの男性、日々戦場で功績をあげ続ける武将のような男は、その風貌とは逆に、やさしいにこやかな笑顔で迎えてくれた。たしかにこのにこやかな笑顔は普段見慣れているような印象を受ける。

「お身体の事もあるだろうから、楽な姿勢で構いませんよ。何か暖かいものを持ってこさせよう。」

彼が席を立ち奥の部屋へ行く。「はじめまして」と挨拶をする。
まずは高校の部活の先輩と後輩であったことだとか、家はどこだとか、高校卒業後には何をやっていたかだとか、そんな事情聴取のような形で話が進んでいった。

彼が戻ってきた。紅茶のいい香りがする。何という紅茶なのかなど、聞いたところで分からないものですから、さほど興味も持てず、ただ緊張を解きたかったのもあって、ゴクゴクと音を立てて飲んでしまったかもしれない。

「今日初めてお会いしたが、なんて良い方だろうか。私の息子の見る目が確かで大変嬉しいよ。私はお見合い結婚だったものだから、恋愛結婚はうらやましい限りだ。あなたは、これから私の家族にもなるのだから、しっかりとどんな人か会って話をしてみたかったんだ。一度、ご両親にもご挨拶と謝罪に赴かねばなるまいね。この度は息子があなたに対して本当に申し訳ないことをした。父親として、あなたには心から頭を下げよう。何度も息子とは話をしているのだが、今回はやはり子供はあきらめるべきだ。あなたもまだ若いから、今回中絶してもまた妊娠できるだろう。学生である息子と、正規の職にも就いていないあなたでは、今すぐに家族として生活はできないであろうし、まずは二人が各々幸せになる準備をしっかりした後で、ちゃんと家庭を作る方がお互いのためであるでしょう。」

分かってはいたことですが、中絶とはっきりと物言われた瞬間、お腹を強く殴られた気持ちで、さきほど飲んだ紅茶の香りが一層気持ちの悪いものとしてこみあげてきました。彼は私の手を握ってくれます。

「僕たち、まだまだ若いものですから、体力的にも二人で協力すれば幸せな家庭は作れると思っています。もちろん、できれば父さんには受け入れていただいたうえで、協力してほしい。学校も辞めて働き口もあるし、特段生活に困ることもないのだから、何も問題はない。あちらのご両親も協力してくれると言ってくれているし、何より僕たち二人がお腹にいる子と幸せになりたい、子供のために立派な親になりたいと思っているのだから。」

彼は誠実で優しくてきちんと私を愛してくれているのですが、こればかりは百戦錬磨の武将とまだ寺子屋を出たばかり小僧といった印象でありました。

「家族を持つということは、そんなに簡単なものではない。ケガも病気もする。子供だけではない。例えばお前が入院してしまったときは、どのように生活するのか?家庭を持ち始める人間が、最初から協力してほしいなどと戯言を平気な顔で言うとは、大変嘆かわしい。仕事があっても給料の差はある。十分な教育を子供に与えられなくて、何が立派な親なのか。十分な教育を与えられずに、社会から疎外されるような大人に育ってしまうことだってある。私は社会に出ている人間として、シビアな世界を知っているのだ。父とて、お前と彼女をしっかり幸せにはしたいから、あえて厳しく言っているのだ。ようく考えてほしい。」

彼は押し黙ってしまう。握った手の力が強くなる。
彼の父は厳しい目を私に移し、語気を強めた。

「私としては、二人のことを反対しているわけではないのだよ。今日会ってみて、あなたは大変良い人柄だし、是非とも私の娘になってほしいとも思う。だがね、あなたも無責任に考えないでほしい。あなたは生まれてくる子供の何の責任が取れるのか。人柄と社会的地位は異なるもので、残念ながらあなたの教養はそこまで高くはないでしょう。生まれてくる子供をあなた自身が不幸にしてしまうのですよ?子供に子供が育てられますか?冷静でないのは分かるが、答えなどとうに出ているのだよ。」

燦燦と降り注ぐ初冬の日の光が、丁寧に手入れされた庭を一層美しく彩り、どこか海外の画家が描いた絵のような、今の私の気持ちとは真逆の情景を作り出していた。

「心から言おう、もし二人が無理やりにでも産むというのなら、その子は大変不幸な子になるだろう。間違いない。そして結果周りも皆不幸になるのだ。そこまであなたは考えましたか?いや、考えられないから、ここまで来てしまったのだろう。でも安心してほしい。私は息子とあなたを絶対に幸せにしますからね。病院へは私が連れて行ってもいいから、都合の良い日を言ってくれれば迎えにいくよ。」

怒りなのか、劣等感なのか、寂しさなのか。残りの紅茶のポットの中身はどす黒い茶色の液体になり代わっていた。思い出そう。彼を愛している自分と、すでにいる生命の強さを。ヒーローなのではないか。私は最強であったに違いない。まっすぐに強く清く。一言だけを発した。

「それでも私は産みます。」

数分だろうか、数時間かもしれない。誰も言葉を発しない。

庭の向こう、遠くの家であろうか。肌寒い季節となったのに、どこかからか秋麗のころ流行っていたラブソングが流れている。
私はこのラブソングが大嫌いだ。


第二章 白紙の辞書

人生は算数ができればだいたい上手くいくものだ。

高校時代には部活にも入らず、バイトと遊びばかりの日々。自分で言うのもなんだが、いわゆるハンサムの部類の人間であり、かつ地頭も良かった。髪の色はおよそ黒い時などなかったし、カラーコンタクトやピアスなどは当たり前のようにつけていたが、いわゆる不良ではなかったため、オシャレで格好の良い少年をしっかりと演じられていたのだ。彼女がいなかったことはほとんどなかっただろう。年上の大学生や他校の女子、先輩や後輩、特段そういう意味では不自由はなかった。別れる際にはしっかりと計算して上手く流れを作るのだ。面倒な時は、その後の計算もして、問題なければ電話一本で一方的に別れを告げればなんとかなる。泣こうが喚こうが、付き合いたくなくなれば別れるしかないのだから。こういうふうに僕自身を表現してしまうと、大変性根の悪い男に思うかもしれないが、そんなことはない。彼女を喜ばせることは出来るし、嘘はつくが裏切ることはしない、勉強ができない友人には勉強を教えるし、自分より強い者には上手く付き合うし、困っている人や辛そうな人は気まぐれではあるが助けてやっている。

当時は自分の家など良いとも何とも思っていなかったが、そう、良い家柄だった。やりたいことがあればやらせてもらい、買いたいものがあれば買ってもらい、お金で地頭の良さを確保し、全てを自分で決めて良い。今日の夕飯はいりませんだとか、明日は何時に帰りますだとか、そんなことは言わずに数日帰宅せずとも何も言われない、そんな家であって僕はなんと放任主義の両親なのかと思っていたものだ。

かくして、またいつもの通り、お金で受験対策をして、まぁそこそこ良い都内の大学に入ったものだから、身なりは大人を気取るようになったくらいで、高校時代とほとんど変わらない大学生活を謳歌していた。『自分の辞書に不可能という文字はない』などと良く言うものだか、僕の辞書には僕の出来る様々な能力、技術が書き記されており、大概の人間の大概の問題はその辞書を開けば解決するのだ。

大学に入って春のうちに3人と付き合ってみた。高校とは違い、(僕好みではあったのだが)清純ではなくなった女性たちは大変面倒な生き物へと昇華していた。あれこれと注文が多く、僕が付き合ってやっているのにもかかわらず、さも当然の顔で僕からの寵愛を受け、それを見せびらかすのだ。

夏の海と冬の海が異なるように、またそれが繰り返されるように、無いものが愛おしくなるのは人間の性である。ひと通りの春を満喫しました僕は久しぶりに地元の友人と会いまして、昔の話に花を咲かせながら、女などあんなもんだとこんなもんだと討論をしつつ、夏の約束なぞをしておりました。

大学に入ってすぐに自動車の免許を取り、家の黒塗りのベンツを乗り回すのは、何せ目立って気持ち良く、それだけで憧れの眼差しを受けるもので、夏の江ノ島には似合わない黒塗りのベンツでも気にせず海岸線を走っていました。
その日はうなぎ狙いの釣り人が大潮の時間に合わせて江ノ島の桟橋を意気揚々と歩いていた、釣り日和の夜で、僕は友人と安い日本酒を飲みながら車を運転して江ノ島の入り口の駐車場に車を捨て、夜の浜辺へ繰り出すのです。そこかしこの海の家では大宴会が中盤も過ぎているのでしょう。下品な歓声や怒号も愛見えて、レゲエのような音と鳴りを響かせていました。

特段どこでも良いと適当に店に入って友人とまた今度はウヰスキーを飲んでいますと、ニコニコと愛嬌のある女がこちらを見ているではないか。あちらも女2人で飲んでいるようだ。まぁ、夜の海で僕が男連れで飲んでいるのだから、当然と言えば当然であろうか。
するとその女たちが僕たちの席に座ったのである。

「久しぶり!」

はて、誰であろうか。以前付き合っていた彼女のうちの誰かであろうか。僕は表情を変えずに、軽く会釈した。まぁ、適当に合わせていればだいたい見当が付くはずなのだ。

「私の引退試合の打ち上げ依頼だね」

そら来た。部活の先輩であった。
僕の目にも敵わない普通の顔のおとなしい人だったかと思うが、こんがり焼けた肌と露出度の高い服装と、かなり垢抜けたのだろう。

「もしかして覚えてない?」

こういう時は、優しく微笑めばいいのだ。

「もちろん覚えてますよ、先輩」

根は変わっていなそうである。今時の彼氏のことを自分のアクセサリーか何かと勘違いしているような女でなく、おとなしい先輩のままであった。こちらも高校1年生のころとは違うというところを示してあげようではないか。

「だいぶ雰囲気変わったんだね。私は進学しなかったけど、もう立派な大人みたいな感じに見えるよ」

そうであろう。最近は、こんなタイプの女性とは付き合いがなかったせいか、酒も入っていたし、別れることも安易なタイプであると判断して、なんとなく付き合っても良いだろうと次会う約束をしてみた。レゲエの音はより大きな音で、黒い波を一層小さく見せていた。

あまり彼女のことを知らなかったが、知ったとて特筆するような女性ではなかったし、人柄は良く僕を困らせることはないので、苦も無く付き合うことができた。ひとつ言えば、お金に興味がないのであろうか、僕のベンツを見ても何も感想は言わなかったし、金額が高いものには目もくれず、出来るだけ安いものを楽しもうとする、つまらないところがあった。
まだ口約束程度ではあるが年末には大学の友人たちとスキーに行く約束もあったし、あまり彼女にお金使いたいという気持ちもなかった。勤勉で誠実な学生であり、家は裕福だがきちんとした教育が行き届いているため、親からお金をもらっているわけではなく、真面目にアルバイトをして交友関係を広げている、あまりお金を持ってはいないそんな彼氏を彼女は大好きなようだったので、そのようにしてやっていた。

晩夏の蒸し蒸しとした夜、突然の電話であった。会って話がしたいという。なんとなくそんな気もしていた。ひと月前くらいか、あの晩、失敗していた感覚が確かにあったのだ。嗚呼、蚊の音がうるさい。

さて、どうしたものか。できれば将来のこともあるし、このまま1人の女性に決めてしまうのも勿体無い気もする。自分の部屋の蛍光灯にたかる羽虫をぼんやり見つめながら、なんとかなるであろうと深く考えもせず、彼女の話を聞きに行った。

僕は大好きなポテトをちびちびと食べ(本当に好きなのはその後指に付いた塩を舐めることなのだが)、彼女の言葉を待っていた。
産みたいというのだ。
まぁ、別に構わんか。
そんなに嫌いではないし、これまで遊び尽くした感もある。どうせ両親も一つ返事で許可をしてくれるだろうし、経済的な援助も十分であろう。
こういう時、悩む素ぶりを見せるのは男らしくないし、自分の評価も下がってしまうから、しっかりと素早く承諾した方が良い。
どちらでも構わなかったが、流れに身を任せてもいいだろう。海は沖に流れているのか陸に向かって流れているのか見てもよく分からないのだから。

安易ではあったか。相手の両親に挨拶をするのだが、嗚呼嫌だ。面倒臭い。まぁ、怒りを買っていたところで、上手くやればいいだけなのだから、さっさと終わらせようと内心はイライラしていた。
拍子抜けではあったが、何の問題もなかった。小さな一軒家で、壁には何の蔓だか分からないが、手入れされていないのが一目でわかる貧乏な主人公が苦労しながらも大成していくアニメに出てくるような家で、ご両親もそこまで深い話はしないし、大変優しい言葉をかけていただき、まぁこんなもんなのかもなと思った次第。はつらつと帰りの挨拶を済ませて家を出て振り返る。来た時と印象の変わらない、ただの一軒家がススキの間で揺れていた。

おかしい。僕の両親はこんな両親ではなかったはずだ。なぜか反対するのだ。教科書通りに説明しても、取扱説明書通りに説得を試みても、全て跳ね返ってくる。なぜだか分からないから、段々と面倒になって、一旦彼女と相談するという形で問題を先送りにした。彼女といえば特段急かしてもこなかったし、彼女のご両親も何も言わなかった。まぁ、何か言われたところでどうしようもないのだし、上手く言えばいいだけだ。何度か諦める可能性がないのか彼女の意識を探ってみたものの、これまたなぜか断固たる意思を持って母親になることを望んでいるのだった。人というのは誠に面倒である。こんなに僕が苦労するとは思わなんだ、今まで何も言ってこなかった両親がかくも頑固であり、母親なぞは目の前で泣き崩れる始末。部屋の蛍光灯がジージーと音を切れかけているが、替える気にもならない。

なんとなくこれで終わるのだろう。親父が彼女に会って話すと言い始めた。これまで押し問答を続けていた僕は、ともあれ流石の彼女も親父の説得はできないであろうと、決着に向けて胸を撫でおろしていた。親父は実業家であっていわゆる成功者であり、大層な理屈屋で、相手を論破することに長け、弱みなど見せたことはない。僕でさえ説得もままならないそんな相手を学もないただの小娘が説得できるはずがないのだ。

まさに僕の気持ちのように晴れ渡った初冬の日曜日。誰もがいつもと異なるこの日曜日を感じていたし、きっと各々が目標を持って対面したのだ。僕だけを除いて。
建前ではあるが、親父にも彼女にも分かるように、しっかりと親父の説得を試みる。結果は予想していた通りであり、親父の理屈、正論を並べた厳しい言葉がリビングに舞う。だが、なんとなくその場の雰囲気がいつもと異なるのだ。普段そんなことはしない僕が親父に言われるがまま紅茶を用意したからなのか、あいも変わらずニコニコと愛嬌良く座っているだけと思っていた彼女の表情が何とも言えない色に染まっているからなのか。これは何色と言えばいいのか、赤とも青とも取れるような、怒りとも悲しみとも取れるような。

次の瞬間。

どんなに感動的な映画を観た時よりも、どんなドキュメンタリーで小さな子供が助けられたお話よりも、なんという衝撃か。こんなことがあるのだろうか。どの文献にも、どの説明書にも、どんな大企業の機密文書にも書いていないであろう。
彼女がただ一言で親父を負かしたのだ。

なんと信じられない。

何の理屈も、何の説明もなく、たった一言自分の気持ちを表明しただけである。誰も何も言えなくなってしまった。発した彼女のなんと凛々しい横顔か、人はこんなにも強い存在であったのか、なんと僕自身がペラペラの存在なのか。

遠くでゴーッと一緒くたになった波の音が聞こえる。いや、これは耳鳴りだったのかもしれない。口の中に塩の味が広がる。小学校の頃、クラスの皆んなが話す前日のドラマの話に、それを観ていない僕だけが蚊帳の外であるよに。僕だけが取り残されているような気がした。親父も彼女も腹をくくったのか、達観した顔をしている。僕はこんな真っ直ぐな女性と結婚するに値する人間ではないのに。

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