短篇【光の方へ】 梅澤美波
僕は昔から習い事は穏便に、右肩下がりに諦めてきた。
例えば、硬い家系から習わさせられた剣道は嫌気の匂いと虚無の体から親が諦めて、ゆっくりと辞めた。あまりに現実味が無く、限界を知らない根性論によって道場から見える全ての景色が諸悪の根源として認識していったんだ。
勉強の柱となるように珠算にも行ったが、どうやら言葉にも出来ない三級という位のタイミングで高校進学と重なり、平行線となって意欲が消えた。
僕より何倍も歳を取った先生から教えて貰うことに対して、文句を言うのも野暮だったので嫌な言葉一つ言わずやっていたが、そこにいた民度の低い学生の賑やかしがどうにも好きになれず、希望の無い教室に段々と興味が薄れて、とりあえず辞めた。
夏はいつになったら、光が生きるのか
「美波ちゃん、今年も悪いね」
『いえいえ、そんな事無いですよ。お兄さんこそ毎年一緒に有難うございます』
「……僕は弟の命日に独りだと寂しいだけだから」
『大丈夫ですか?』
弟の前で、僕は心配された。
ここの墓地の近くの家では、春の死臭を送る風鈴がゆらゆらと鳴っている。そのチリーンという音色によって僕らが上げた線香の煙と、絢爛の花束の色が神々しく見えてくる。
今年の夏は屁古垂れるほど暑くなく、団扇1つで身体の加速が冷やされるほど、過ごしやすい。軽いシャツ一枚と長ズボンの出立だけで汗も失意に落ちて、自適に呼吸する。
まるで机を叩くような蝉の音に、逃げ水のような空間がちらほらと。点在しても、この墓地だけは聖域のような。そして僕は彼女が拝む横で、立ちながら墓跡に向かって一言掛けた。
「お前は元気か?」
5年前の7月30日、弟は事故で死んだ。同い年の彼女を残して、凡ゆる悩みがない不屈の世界に飛び立って行った。
見飽きた親の泣き顔や苦しむ弟の友達の叫喚に、僕は嗚咽してもなおこの脳裏から世界は変わらなかった。
こういう時、人は泣くものなのか。僕は悲しみには暮れたが、涙という存在を確認する事は出来なかった。キツく栓が閉まった涙腺には、感情の迸りが流れていない。光が見えなくなるぐらい、仄暗い表情で弟と別れたかった。
でも僕は、どうしても泣けなかった。
毎年この季節になると、美波ちゃんと一緒に墓参りに行った後、彼女含めた家族全員で夕食を共にする。悲しみがまだ翳りにある親も、この日だけは何事もないように手料理を振る舞う。僕の好きな大衆的なカレーや弟の好きな肉じゃがまで。机の上は晩餐のようだった。
薄味が好きな父と濃い味が好きな母のほんの小さい小競り合いも、スプーンとフォークを間違えるお茶目な母と叱ろうとする父の説教時間も。この日だけは何事もないようにする。
美波ちゃんはいつも笑ってくれる。父の言った親父ギャグも母の言う冗談も、僕が見せるまだ作り終えれてない笑顔も、美波ちゃんはいつも優しく笑ってくれる。
冷房が入ったリビングが幸せで暑くなる事を見越して、僕は冷房の設定温度を下げた。でも今年には合わない温度だったらしい。美波ちゃんが気を利かせてゆっくりと自ら上げていった。
普段は食事中つけているテレビも、親が好きな野球中継も、今日は消えている。この日だけは何事も無いように皆んなで会話する。
悲しみの数より、幸せの数を増やして
それでも僕は、少ししか笑えなかった。
帰り道、いつも僕は美波ちゃんを送る。弟の中学時代からのお付き合いで、彼女の素性はなんとなく頭に入っていた。僕は彼女と一緒に都会とも言えない、田舎とも言い難い畦道を、二人だけ歩く。
その時は団扇も携帯も持たずに、閑散とした音で耳の鼓膜を叩きながら、サンダルの擦り減る音を響かせる。
「これでまた一年後だね」
『どうせ、あっという間ですよ。その頃には私たちは時間なんて忘れてる』
「……そっか、そんなもんだよな」
この時は視線を合わせる事はしない。華奢な彼女より少し上にある僕の頭は何かに守られながら、ただ話すだけで。
『今年もこの日が楽しみでした、変ですけどね。彼氏の命日が一年で一番楽しみというのは』
「でも親は喜ぶよ。美波ちゃんが満足してくれたって」
『いえ、そういう事ではなくて』
「ん、じゃあ………」
僕の一言目に放たれる言葉を待たずに、彼女から柔らかく歩みを止めて、
決死の夏を言う。
『お兄さんも〇〇のこと、まだ想ってますよね』
この時、蝉たちが一斉に口裏合せて死んだのかと思った。合唱で指揮者が音を止めるように、譜面には続きが書かれていないように。
「美波ちゃんから僕はどう見える?」
『何か忘れ物をしたような、そんな感じです』
「うん、そうだね。でも実際はもう少し違う。結局家族がいない寂しさだよ。親や〇〇の同級生と同じような喪失感だけが、まだ残ってるんだ」
嗚呼、僕はまた約束を破るんだ。
とりあえず近くにある自動販売機からより安くて小さい水を買って、夏特有の虫たちが何故かいないところで休む。
「なんか飲む?」
この公園には、ジョギングをする人がよく通る。中央に池があって、体を動かすにはちょうどいい。僕らは惨めな長椅子に腰を掛けて、二人喉を鳴らして、会話する。
『これ、頂きます』
初めて寄り道をするんだ。
「美波ちゃんは、〇〇とどう過ごしていた?」
『普通ですよ。ごく一般的でありふれた感じでした。〇〇があんまりはっちゃけた恋愛が好きじゃなくて、ゆったりと付き合ってましたよ』
「〇〇らしいね、あいつはそういう事分からないから、結局普段通りが好きなんだよな」
弟は僕が辞めた剣道をずっと続けた。僕が屁古垂れて泣いた道場で楽しさを見つけて、僕よりも泣いて、楽しんでいた。
『心地良かったですけどね、〇〇の素の顔は結局いつもの〇〇だから、飽きずに幸せでした』
「それは意外だね、美波ちゃんならもっと派手に遊んでそうだけど、あ、でも今の時代だとこれはセクハラになるか」
『お兄さんなら大丈夫ですよ。それに私は昔からそういう見方されてきましたから、慣れてます」
「そっかぁ、美波ちゃんは優しいな」
今何時だろう、恐らくまだ僕が寝る時間ではない予想を立てて、彼女との会話に水をやる。
『お兄さんは、〇〇とどんな関係でした?』
「うーん、一言では言えないけど、割と水と脂のような関係だったよ。僕はインドアで〇〇はアウトドア……っていうほど外に出るようなやつでも無かったけどね」
「とりあえず僕は文化系だっし、〇〇は運動系だった。だから合うことの方が少なかったよ。多分、〇〇もそんなこと思ってたんじゃないかな」
『でも悲しいんですよね』
「……悲しいよ、そりゃ。家族だもん。パズルのピースが欠けたようなもんさ」
弟が亡くなった時、走馬灯のようなものが駆け巡った。頭の中で閃光が走ると同時に、痛みがない衝撃が映像と共にスクリーンを映していく。
「僕が何か一つのことに諦めてた時、〇〇は必死に踠いていた。泳げない海の中でも必死にバタ足するようにして、だからそんな気高い〇〇を見て、また思うんだ」
「〇〇とは違う良さが僕にはきっと有る。だからこれでめげずにまた別の事を頑張ろうって」
『涙ぐましい兄弟の力ですね、素敵じゃないですか』
「そんなこともないよ、現に僕が勝手に心を入れ変えるために思っていたことだもん。〇〇はそんなこと思わずに自分なりに頑張っていた」
「だから〇〇がいなくなった今、やっぱり、 何か足りない喪失感は溢れ出てくるよ。自分勝手だし、独りよがりだけどね」
少しだけペットボトルを握り締める強い音が、公園の林を抜けて世界に飛び出る。その音は空中で絶え間ない踊りで死んだあと、空間に馴染んでいく。
『それでも〇〇が亡くなったという悲しみに暮れているのは事実ですよ。だからお兄さんも私も皆んな一緒です」
『理由はどうあれ、悲しんでいるのは』
夏に光は生きているのか、そんなこと知る余地もない。
影の中を命の糸を手繰り寄せながら光は進むだけで
夏はここから____________
雑踏が消えゆく家の前、
『家まで有難うございました。今年も楽しかったです』
「またおいで、一年後じゃなくても気が向いた時にいつでもいいから」
『はい、今年からそうします』
「じゃあまた……」
僕はその弱い台詞を振り向きながら言った後でも、彼女の清々しい声は聞こえる。
『〇〇はみんなの中で生きてます。だからもう大丈夫です』
『だからもう、大丈夫ですよ』
そういえば、一昨年から諦めずに作った仕事も今では普通になれた。親の理解を求めるには時間が掛かったが、安定出来ただけでも、親は僕を許してくれた。
自立した生活を送りながら、親に仕送りも始めた。最初は難色を示した親も、立派になった僕を見て拒む理由も消え失せたらしい。
大人になった、それは生きた証拠。だからもう僕は、何も見えないように彼女の最後に言った言葉に振り向きもせず、手だけ出して会釈して帰った。
沈み始めた朧気な夜は、逆転して光になる。〇〇が光で僕は影。その構図だけに意識をしていた。
でも今は光になれた気がした。
そんな強い光になれた気がしたんだ。
数年後のある夏の日、美波ちゃんから連絡が来た。
『今駅前にいるんですけど、呑みませんか?』
僕は見た瞬間、即答して約束を作った。好きな長袖のシャツも腕捲りをして、何か特別なスイッチによって変わっていく。
弟がくれた最後の希望によって、
僕は今日、光の方へ寄り道をする。