MIU404 5話(+4話?)感想 〜数の理論から溢れる人たち〜

3話の感想を公開した7月15日から、もう3週間以上経って、6話の放送が終わってしまった。

私はライターでも評論家でもない、観たいものを観て書きたいものをただ書いているだけなので、
各話感想を書くことを自分に義務付けていたわけではないけれど、
4話を、5話を観ていなかったわけでも、書きたいほどの感想がなかったわけでもない。
しかし書くには感想がまとまらなすぎていた。

4話を観て、5話を観て、
漠然と抱えていたものが、6話を観て少しすっきりとした。

MIU404を観ていて強く思うことは、やっぱりこのドラマは、
1話完結型でありながら、
全編繋がっているんだなということ。

タイムリーさには欠けるけれど、
幸い私は書きたいものを書きたい時に書いてるだけなので、
長すぎる前置きはさておき、5話の感想を中心に、思ったことを書く。

◆数の理論について

「数の理論」は4話「ミリオンダラーガール」で出てきた言葉だ。

はむちゃんこと羽野麦一人を犠牲にして、暴力団の一斉検挙に踏み込んだ我孫子の
「より多くの人間を救うため」という思想を、桔梗は「数の理論」と評した。

少し話を脱線させて、「トロッコ問題」について話をしたい。

「トロッコ問題」が有名になった要因の一つとしては、
10年前に出版されたマイケル・サンデル氏の「これから正義の話をしよう」があるが、
「トロッコ問題」自体はもっと昔、1960年代から存在する理論である。

「複数人を助ける為に他の1人を犠牲にしても良いか」と言う本理論は、
答えがあるものではなく、それに関する議論があってやっと成立する理論である(と、私は思っている。)

従ってどちらを選択しても間違っている訳でも正しいわけでもないのだけれど、
現実では得てして同じような選択を迫らされ、自分が選んだ道が正しいか判断する必要がある時がある。

我孫子は、「複数人を助ける為に他の1人を犠牲にしても良い」と言う理論に正当性を見出していた。
「私たちは常に、多い方を取るしかない」と。

私は、正直、彼が「間違っている」とは思わない。
現に、異を唱えつつ、我孫子に「他にどうしろと?」と聞かれた桔梗は答えを出せずにいた。

しかし、いつ何時もその理論が正しいかと言われればそんな筈はないのである。
トロッコ問題は正解を出す為の理論では無い。

話を戻そう。

この数の理論は4話で一旦幕を引いたように見えて、5話にも形を変えて再び現れている。
5話「夢の島」のテーマは、「搾取される技能実習生」だった。

伊吹が序盤で「聞いたことある!」と言うように、
おそらく事情を全く知らない人はいない、
しかし、どれだけその現状が残酷か踏み込んだ人は多くはない問題である。
当然、私もその「踏み込んでいない」方の1人だ。

強盗の協力者と疑われたマイはバイトをクビになり、伊吹に泣きながら電話をかける。
そして伊吹はマイの話を聞いて、初めてその現状に踏み込むことになる。

「なんかもう、なんつって良いかわかんなかった。国の罪は、俺たちの罪なのかな」
「俺がごめんねって言っても、何十万ものロボットにされた人たちは救われないんだよ」

ここに、形を変えた「数の理論」が姿を表す。

伊吹1人が謝っても、日本に駆り出された何十万の留学生は救われない。
それは、救われなかった留学生と同じ人数の日本人が謝っても同じ、変わらない事なのだけれど、
数の大きさと個人の小ささを嫌と言うほど突きつけられる事実だ。

4話における「数の理論」は、
「より多くの人間を救うためには、1人の人生は蔑ろになっても仕方がない」と言うものだった。
大きな正義の前の、些末なこと。
5話のそれは、強いて言うなれば
「より多くの犠牲を前にして、1人の人間の善行はなんの影響力も無い」ではないだろうか。
大きな犠牲の前の、些末なこと。

もうひとつ、この数の理論についてのシーンが伊吹と志摩会話の少し後にもある。
志摩が水森に任意同行を求めるシーンだ。

「"理不尽には理不尽で返せ、俺たちには金を奪う権利がある。"その呼びかけに乗せられた19人とマイさんを釣りに、あなたは見事逃げ果せた。理不尽ですよね」

ここでも煽りの達人(と私が勝手に呼んでいる)志摩の煽りスキルが炸裂する。
志摩は冷静な時も、キレて理性が無くなった時も、驚くほどに言葉巧みだ。
そんな志摩に翻弄されるように、水森は弱音を口にする。

「理不尽というのなら、この国で起きてる事こそが理不尽です。移民を受け入れないと言っておきながら実習生や留学生という名目で何十万人も働かせてる。こんな小さな島国で、世界で4番目の多さです。なぜかわかりますか?朝5時の店頭に弁当を並べるため。毎朝新聞を届けるため。便利な生活を安く手に入れるため。今更どうして、僕1人がこんな罪悪感を抱かなきゃならない」

水森は自分で興した会社を倒産して借金を負ったのち、監理団体の職員になるも、
そこは違法なキックバックを行なう悪徳団体だった。

水森のような事態に巻き込まれる人は少ないとしても(多いのかもしれないけれど)、
彼のような思想に囚われる人は、技能実習生に関してだけでなく、
他の多くの問題に直面する機会を持つ人であれば、
少なくは無いのではと私は思う。

100人単位の人材が犠牲になる現状を見て、
自分1人が辞めたところで、会社が摘発されたところで、
そのシステムは止まらない。

「より多くの犠牲を前にして、1人の人間の善行はなんの影響力も無い」
だから、何をしたって、何をしなくたって、世界は変わらない。

その問題を知って、「みんなどうして平気なんだろう」とこぼす伊吹に対し、志摩は「見えてないんじゃない?」と言う。

「見ないほうが楽だ。見てしまったら世界がわずかにずれる。そのズレに気付いて、逃げるか、また目を瞑るか」

水森はその問題に直面して、見なかった事にするどころか加担してしまって、自分を誤魔化す事ができなくなった。

先ほども述べたように、私は、「迷ったら多い方を取る」と言う数の理論が間違っているとは思わない。
しかし、「正しく無い」理由を述べよと言われても、論理的に説明できない。

任意同行を迫られる水森が、堰を切った様に話す言葉に志摩は「うるせー!」と一喝する。

「俺は今何十万人の話をしてない。マイさんという、1人の、人間の話をしてるんだ。日本に憧れてやってきた、1人の、たった一回の人生の話を」

結局、大きな問題を前にして、一人の人間についての大切さを説くには「うるせー!」と言うくらいがちょうど良いのかもしれない。

しかしその答えのひとつは、すでに野木さんの過去作品で出ている。
・・・と、私は思っている。(逃げ)

それは、アンナチュラル5話のミコトと中堂の会話である。

5話「死の報復」では、恋人の死因をどうしても究明したく、
遺体を盗みまでした依頼人のために、中堂とミコトが極秘で調査を行うストーリーだ。

個別の案件に深入りするタイプじゃないと思っていた中堂が、自分の立場を危険に晒してまで調査を進めるのはなぜか。
「納得のいく説明をしてください」と問い詰めるミコトに中堂はこう答える。

「考えたことがあるか。永遠に答えのない問いをくり返す人生、今結論を出さなけらば、もう二度と、この人物がどうして死んだのか知ることが出来ない。今、調べなければ、永遠に答えの出ない問いに、向き合い続けなければならない。そう言う奴を一人でも減らすのが、法医学の仕事なんじゃないのか」

中堂の恋人は、犯人の捕まっていない連続殺人事件に巻き込まれ、今も尚犯人を追っている。
二人で調査を進める中で、中堂のそんな過去が垣間見える姿を見て、ミコトは「何かできる事があれば」とつぶやく。
それに対する中堂の言葉は、「今やってる」だった。

私は、それが答え(もしくは答えのひとつ)なのではないかと思う。

永遠に答えの出ない問い。
それに向き合い続ける為には、自分が正しいと思える事をするのが一番なのだと思う。

水森は、
志摩と伊吹に「クズ」と言われた水森は、
強盗を企てるまでは、これまでに出てきた犯人たちと、なんら変わりない人間だった。
「人は信じたいものを信じる」
「誰と出会うか出会わないか、その人の行く末を変えるスイッチは何か、その時が来るまで誰にもわからない」
その後の彼は計画的に他人を貶めて自ら罪を犯していくので「クズ」と言われても仕方がないかもしれないけれど、かつては彼も「自分の過去に苦しむ人」の1人だった。

「これまで、沢山の人を日本に入れてきた。三百人、四百人、五百人の人材。マイさんといると、あの人たち、一人ひとりのことを考えてしまう」
「そんな良い人間じゃ無い、卑怯で弱い、カタツムリだ」

最後、水森は、人通りの多い場所で自分の強盗姿を晒し、「日本に来るな」と叫んだ。
それが、彼が、何度も道を踏み外してしまった彼の「正しい」と思える事だったのなら。

私は、彼が少しでも救われた事を願うばかりである。

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