わかりあえないあなたと一緒に─『他者といる技法』感想
奥村隆『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』(筑摩書房、2024)を読みました。
もともと1998年に日本評論社からハードカバーで出ていた本で、今年2024年にちくま文芸文庫で再刊になったみたいです。文庫では三木那由多さんの解説が読めます。
改めて本書は20年以上前に書かれた本とは思えないほど現代に通じる部分もあり、コミュニケーションの難しさとその普遍性を感じます。
思ったより難しくて読むのに苦戦したけど良書でした。読んで良かったです。
タイトルに"技法"とあるのでハウツー本のような第一印象を抱いていたけれど違いました。
この本に書かれている内容は、普段私たちが何気なく行っている他者とのコミュニケーションの技法についてです。
その内容は私たちが「すでに知っている」つまり基礎的なことかもしれないけれど、日常生活において当たり前に使っていることと、それらの技法を、基礎を理解して使いこなしていることはまた別である、ということが序章の最初に書かれています。
上記を読みつつも、実際にその二つが違うことや、何がどう違うのかまで意識できたのは、章をしばらく、いやかなり読み進めた後でした。
本書は序章を除く六つの章の殆ど(一〜五章)を使って、"私(/私たち)"と他者のコミュニケーションと、それによって変容する主体と客体の構造(バランス?)について書いています。
前提として、基本的に私たちは、自らの存在証明を他者からの承認を通して得ようとする──という記述があります。しかし「他者からの承認を得る」という行為は、いわば他者に主体を譲渡し私を客体化させることになるので、私たちは自らの主体性を確保するために『他者といる技法』を駆使する。この板挟みの状態を筆者は「〈承認と葛藤の体系としての社会〉」と言い、他者とのコミュニケーションは常にこの状態であると説きます。
この「〈承認と葛藤の体系としての社会〉」について説明したのが一,二章。より具体的な事例(外国人、中間階級、自己啓発セミナー)を用いて説明したのが三〜五章です。
この本は「どの章から読んで下さってもよい」と序章に斬新なことを書いており、その通り一〜五章は「他者によって客体化されようとする私たちは、主体性を確保するためにどのような技法を取っているのか」ということについて、さまざまな事例を取り上げながらも一貫して同じテーマを説明し続けています。
そして私たちがどんな他者に対しても、客体と主体の間で揺れ動きながら日常的にコミュニケーションをとっているということを説いた後、少し視線をずらした話を展開します。
六章では他者といる技法のひとつとして「理解」について論じます。
私たちは、他者と共存するために他者を理解したい、他者に理解されたいと思います。けれど、実際に100%相手を理解する、もしくは理解されたとして、実のところそれは他者との共存を達成し得ない、むしろ共存を阻むことがあると六章は説きます。
更に「わかるはず」の他者について「理解」できない時、私たちは「わかりあおう」とするが故に「理解」を急ぎすぎてしまい、わかったつもりになってしまうか、わからない他者との共存を拒んでしまう、とも説明します。──そしてその先に存在するのは、「差別」であり「暴力」であると。
私たちは他者と共存するための技法として必要なものは「理解」であるという前提のもと、他者のことを「わかるはず」とおもっと思ってコミュニケーションを取ろうとする。しかしその先に直面するのは「差別」であり「暴力」である可能性がある。
そんな時、──他者といるための技法であったはずの「理解」が他者との共存を阻む時、私たちはどうすれば良いのだろうか。
「理解」することによって他者といられないことがあるのならば、私たちは「理解」とは別の「他者といる技法」を選択する必要があるのではないか。
それは、「わかるはず」の他者といる技法ではなく「わかりあえない」他者と「わかりあえない」まま「いっしょにいる」ための技法ではないか──
その技法が何かについて、筆者は明確な答えを書かず糸口だけ残して説明を終えます。ただ、個人的には「やっぱりか〜」という納得感があったので、ぜひ同じ気持ちを読んで味わってほしいです。
この六章が個人的にとても響きました。気になった方は一,二,六章だけ読んで残りも読むか考えるでも良いと思うほどでした(←)
(以下は私の感想です)
上記でこのようなことを書きました。
私たちは「人類みな同じ」で、「同じ」だから「わかり合える」と考えてきたところがあると思います。
──同じ地球に生きる同じ人間がどうして争うのか、差別するのか、戦争をするのか──
でも本書はそれは違うと書いています。
そうではなく、私たちは同じ人間ではない、「わかりあえない」他者で、わかりあえないまま共存する、一緒にいる方法を考える必要がある。他者とコミュニケーションをとるとき、「私たちはわかりあえる」というゴールを目指してコミュニケーションをとるのではなく、「私はあなたのことがわからない」というスタートから始める必要があるのだというのです。もし本当にそうだとしたら、──それは今までの価値観を180度ひっくり返すような考え方で、とても絶望的で恐ろしくすら感じます。
でもその考え方は、私の大好きな『違国日記』が「私たちはみな違う人間だ。それでも」を繰り返すように、ローティや他の哲学の本が対話の大切さを説くように、そして今見ている『虎に翼』がわかりあえない人々とも一緒に働く様を描くように、どこかと少しずつ繋がっているようにも思えます。
岡真里は、『彼女の「正しい」名前とは何か』でこのように書いています。
岡真里についての感想は、今回のようなまとめではなく垂れ流しですがBlueskyで書いています。
私は『他者といる技法』を読み終わって、『彼女の「正しい」名前とは何か』を読みおわった時と少し似た読後感を覚えました。
──私たち人間は「同じ」ではなく「違う」ことが当たり前で、わかりあえないことがある。しかし、だからこそ、対話する必要があるのだ。わかりあうために対話をするのではなく、わからないから対話をするのだ。「わかりあう」ことをゴールにして、「わかりあえない」から苦しまなくても良いのだ──
そんなふうに言われている気がしたのです。
そしてそれが、ほんの少し希望にも感じられるのでした。