愛に限度は必要なのか
9月にルーブルで愛についての展示を見て、夏休みの推し活を経て、先週は長年推してきたバンドや、愛してやまない音楽にどっぷり浸かったこともあり、改めて愛について考えさせられた。自分の人生としては、年々、愛する対象が増えていって際限がない。
また、関わっている事業の今後についても本気で向き合う過程で「事業への愛がないと、本当の意味での成長は難しいと思いますので。」というコメントをもらい、ここにて「愛について」悩まされることになっている。特に、このまま際限なく愛を行使していった先にある世界が気になる。
9月の頭に訪れたルーヴルの展示では愛の起源や変遷、愛の形の描かれ方を学んだが、もう何百年も前から多くの形の愛があり、愛し方も愛す対象も多様性がある。愛は昔から多様で、個別性が高いことがわかる。
改めて名著を読んでみるものの、愛という仕組みが行き過ぎた結果何が起こるのかには触れられていない。ただ、現代資本主義がどんな人間を必要としているかは記載があった。
こうした人間が資本主義から愛されすぎた結果が今だとすると、結構恐ろしいが、自分自身も特定の行動の中では資本主義に愛されているのかもしれない。
豊かな愛を描いていた映画を見たが、愛が行きつくところまで行きついた場合の、ちょっとした怖さも垣間見た。ここでも愛しすぎた結果の是非については問われない。あまり、そういった感想も見かけない。
そんなくだらないことを考えながら音楽を聴いていたら、久しぶりにポルノグラフィティの曲が流れた。
昔から聞きなれた曲ではあるが、改めて考えてみると良く分からない。「愛の理想」ってなんだろう?理想を掲げて何かを達成しようとする中で、愛が発するパワーはすごい。それはなかなか言語化できないものかもしれないし、する意味もないのかもしれない。ひとくくりに「愛の力ですね」というのがしっくりくるものなのだ。
それでも、今の社会でいろんな人が、いろんな作品を通じて愛を問い続けているのは人間が、その仕組みの最上段にいることを信じたいからであり、それこそが愛の力なのだろう。誰かが誰かを愛している、そんな力が、作品を生み、そして、資本主義により消費されていく。
だとすると、愛にはなんとか限度を設けないで、あきらめずに行使し続けないと、いまの強すぎる仕組みにやられて、力を失ってしまうのかもしれない。今の社会はそのくらいギリギリまで追い込まれている気がしてならない。
そうであるならば、信念をもって、明日からも諦めずに目の前のことを愛していくことに挑戦しようと思う。限度なんてつまらないことを考えるのはやめてみよう。