SakkBiblio25 川北稔「世界システム論講義」
運営しているコワーキングスペースワークテラス佐久での読書会25冊目。今回は川北稔さんの「世界システム論講義」を読みました。
世界システム論は、近代の世界は大規模な地域間分業によって経済的(≠政治的)に結ばれた一つのまとまったシステム(構造体)をなしており、歴史は一つの国を単位として動くのではない、ということをセオリーとして打ち出したものです。
この本や皆さんとの議論を経て、感想や印象に残ったことをいくつか。
1 この本を高校の時に読んで入れば。。という感想が結構出たのを聞いて、学校教育で教わる歴史は、ナショナリズムとセットで始まった近代教育の成立過程を考えれば当たり前ではあるのですが、やはり国民国家の再生産という文脈で行われているのだということを痛感しました。
学校では絶対に教えない、システム論で言う「中核」側の不都合な真実を、どのタイミングで、どうやって僕たちの子供に伝えていくのか、これは真剣に考えなければいけません。
2 戦争の呼称、靖国、戦争責任論など、いまだに燻っておりますが、国家の歴史だけではなく、世界システム論のようなマクロな視点や当時の世界構造も踏まえて議論をしなければ、僕らや子供たちの未来、そしてまた未来に起こりうるかもしれない惨劇を防ぐことに関して建設的な議論をすることは不可能で、1の事情を踏まえても国家の歴史というレベルでの感情的な議論は、無意味だと感じました。
3 オランダ、イギリス、そしてアメリカの次に覇権をにぎるのは誰か、主体は何か、というメンバーから出た議論が面白かったです。ウォーラーステインによればアメリカの覇権はヴェトナム戦争までということにっていますが、僕らの感覚としてはアメリカの覇権は続いています。それは、国というレベルだけでなく、文化レベルでもそうです。社会学の分野では、マクドナルド的なアメリカの文化が世界各地の固有の文化を侵食していくことをマクドナリゼーションといったりします。近年ではGoogleやAppleなどのプラットフォーマーが、「中核」となって日本を含めた「周辺」の文化を侵食している感もあります。国家レベルでの搾取対象となる「周辺」を失った世界システムは、同じ構図で、国家とは別の次元で進んでいるとも見ることができそうです。
4 「中核」が「周辺」から不等価に搾取するという構図は、資本主義のエンジンでもあるので、国際レベルだけでなく国内レベルでもみられるよね、という議論になりました。そして、そうした構図が嫌になって、例えば佐久地域に移住している人もたくさんいますよね、と。そして、この構図から抜け出すために、最近「脱資本主義」という言い方がされていたり、「コモンズ」という概念が見直されているよね、という話も。僕もすごく関心のある分野です。
で、読書会では受け止めてくれそうなメンバーでしたので、あえて僕のモヤモヤをぶつけてみました。最近いわれている脱資本主義やコモンズについて、ぼくが違和感を頂くのは、資本主義である意味安定を築いた「中核」にいる側の人間が言っている/実践しているにとどまっているからではないか。自分自身が安定している場所で、安定している範囲で言っている。他ならぬ、僕もそうです。
その点、「コミュニズム」は、マルクスを含めた「中核」側から提起されたという事実はあるとしても、そこに共鳴し大きな運動になったエンジンは、労働者ら「周辺」から沸き起こってきたエネルギーにあったのだと認識しています。その後の悲劇はいったんおいておきますが。
だから、本当に脱資本主義やコモンズを広めたいのであれば、「周辺」の側に説明し、説得できるものでなければ、社会を変えられる本当のセオリーにはなりえないと思うのです。参加者の方が言ってた「そもそもつくべき人が議論のテーブルについているか」という言い方が、すごくこのモヤモヤの的を得ていると思います。
明日暮らせるかわからない人にも脱資本主義とコモンズの説明と説得ができるか、極端に言えば、明日自分が全財産を失うとしてもそれを実現したいという誠実さがあるか、というということです(すみません、僕はないです。。)
資本主義が嫌だ嫌だと感じている僕らは、400年続いている近代世界システムに変わる新しいシステムを、本当に受け入れられるのか/受け入れたいのか。この本とその後の議論から、とても厳しい問いをつきつけられた気がしました。