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◎百足の草鞋/衝撃!関西銀幕編


 
 ミニシアターを守れ! そんな声がSNSでちらほら聞こえる。自分たちが愛した、シネコンにはない魅力と個性を持った映画館たちが大ピンチである。そもそもミニシアターって言葉は1990年代ぐらいから始まったんじゃないのかね。それまでは二番館とか名画座とか呼ばれていたはず。と、ミニシアターの起源を探る文章ではない。全国で、ミニシアターを守ろうという運動が巻き起こっており、 TWITTERで  #ミニシアターと私  というハッシュタグが作られていた。ミニシアターの思い出か……140×αの呟きでだらだらと書くぐらいなら、一度にまとめておこうと、ここに書き記す次第。過去を振り返り思い出をつづる。世界が平和になって次のステップに向かう際の振り返り作業になればいいが、ひょっとしたら終焉に向かう緩やかな遺書のようなものになるかもしれない、そんなことを考えつつ記憶をたどってみよう。

 そもそもミニシアターって呼称は以前からあったものの、今のようになったのは大手の映画館がシネコンと呼ばれているから、それとの区別化をするための呼称ではないのかな、それまでは大きかろうが小さかろうが一緒くたに『映画館』と呼んでいた、と思う。

 さて。学生時代のことだからもう20年ほど昔になる。大阪南部のかなり特殊な大学に通っていた私は授業そっちのけで、映画を見まくっていた。とにかくクセの強い映画が好きだったし、アニメからポルノまで、ちょっとでも興味があればどんなジャンルでも見るようにしていた。よく『どんなジャンルが好き?』とか聞かれるけど、返答に困るのである。『悪い奴が最後に死ぬ映画』とか『怪獣の出てくる映画』とか、頭の悪そうな返答しかできそうにないし、相手もポカンとしてしまうだろう。そんな向こうのご期待に添える返答はあいにくと持ち合わせていない。とにかくクセの強い映画、これが映画を見る第一の基準だった。わかりやすく言えば、岡本喜八や石井輝男といった、誰が撮ったかわかるクセの強さを持った監督の作品がかかれば、できるだけ見るようにしていた。もちろん、そうなるとロードショー館でかかることはまずなく、名画座に頻繁に足を運ぶようになる。ネットのない時代(という言い回しも古臭い)、唯一の情報源だった雑誌『ぴあ』の映画コーナーをチェックしてはバイクで、時には友人の車に乗せてもらって名画座を目指した。その行動範囲は大阪のみならず、京都、神戸にも及んだ。行けるところはとりあえず行ってみよう。まだまだ路上駐車に対する取り締まりも緩い時代だったから、他府県に行っても手ごろな場所にバイクを止めては、映画を見ていた。

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 よく足を運んだのは新世界の日劇会館と新世界公楽劇場。ここは古い日本映画が三本立て800円で見れたから貧乏で映画好きな学生には大変有り難かった。現在も絶賛営業中の日劇会館は盆と暮れには必ず『仁義なき戦い』大会をやっていたし、夏休みには東宝の特撮怪獣映画も上映していた。のちに京都で再会することになる『獣人雪男』や『大怪獣バラン』といった、図鑑でしかお目にかかれない幻の怪獣映画を見たのもここだった。

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 次に扇町ミュージアムスクエア。ここではアート系の新作やAIPのB級SF映画に千葉真一特集といった旧作の特集上映をたくさん見た。いわゆる『渋谷系』が流行った時は『ジョアンナ』や『黄金の七人』といった音楽がポップな作品も上映していた。道路向かいには天下一品そっくりな味のラーメンと、吉野家にそっくりな味の牛丼を出す食堂があって、予算に余裕があるときはそこでまず腹ごしらえをして映画を見た。さらに余裕があるときは、劇場内のショップで『不良番長』や『ゴルゴ13(高倉健)』のポスターを買って帰った。貼る場所もないくせに、完全にネタ買いですな。

 あとは見たい映画があればどこにでも飛んで行った。大林宣彦監督の『はるか、ノスタルジイ』を見るために神戸の板宿東映(ロビーにオルガンとゴジラの着ぐるみがあった)まで行ったり、『鉄男』『電柱小僧の冒険』の塚本晋也監督特集やATG特集のために京都の居酒屋の2階(だったと思う)にあった小さな小さな映画館、スペースベンゲットに行ったり……ほかには友人がバイトしていたから天六のシネ5ビルでB級アクションを……もちろん石井輝男特集のために京都みなみ会館にも……ミニシアターの話だった。

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これまでの映画遍歴を語るのではなかった。シネコンが台頭するまで、映画を見れる場所は今以上にたくさんあった。今日は梅田、明日は新世界、見たい映画を片っ端から見ていた学生時代、上本町に新しい名画座がオープンした。ACTシネマテークである。ここも新作上映と並び、独自の特集上映が盛んにおこなわれていた。『あしたのジョー』『どろろ』といった虫プロアニメのオールナイトに、小津、黒澤一挙上映に初期宮崎駿作品。古今東西の作品からアニメまで、何でもござれといった印象。毎月のスケジュールやコラムが書かれたリーフレットも配布していた。手書きのそれはとても味わい深く、なんだか『若い映画館』というイメージだった。日活がフィルムをジャンクするといえば、年代別の日活映画特集を、そして同時に女性も見れるにっかつロマンポルノオールナイトも数回行われた。神代辰巳や川島雄三の作品に触れたのもここだった。『アフリカの光』はよくわからんなーとか。 そんな時、ちょっとした事件が起こった。ある冬の日、何かのオールナイト明けで劇場を出ると雪が降っており、辺り一面銀世界。その日はバイクだったので、降り続く雪の中、帰ろうにも帰れない、さてどうしたものかと思案していると、劇場のスタッフさんが声をかけてくれた。当時の自分よりも少し年上のお姉さんだ。朝イチの上映が始まるまで、劇場で時間を潰してはどうか、というお言葉に甘え、時間いっぱいまで、劇場のスタッフルームで待たせてもらうことにした。その間、どんな話をしたのか覚えていない。ただ、そのお姉さんが支配人というわけではないが、オールナイトの仕切りをやっており、周りの若いスタッフのリーダー格だということだけはわかった。幸い、雪も止みその日は何とか帰ることができた。それ以来、そのお姉さんはじめとするスタッフさんと懇意にさせてもらうようになった。これまたどんな話をしてのか覚えてないのだけど、自分のことを『ババー』と呼んでくれたことだけは覚えている。ロマンポルノ特集を組んだのも、お姉さんはじめとする女性スタッフだった。ユニークな特集上映、それに仲良くさせてもらったこともあり、学生時代の終盤からはACTに足繁く通うようになり、そこでたくさんの映画を見させてもらった。

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 卒業する頃に、お姉さんからスタッフになってほしいけど、ごめん、きついし低賃金やし……といった手紙が送られてきた。お姉さんをはじめとする、あの若いスタッフには自分はどんな風に見えたのだろうか。

 それから20年近く経て、いろいろあってすっかりダメになった大人になった頃、またもや趣向を凝らしたユニークな特集と若いスタッフ、それに女性館長が頑張っている映画館とかかわりを持つことになるとは思ってもいなかった。そんな京都みなみ会館とのかかわりはまた『百足の草鞋/京都・寝屋川怪獣模様編』で書く予定ですが、あくまでも予定ですので。

 だらだらと書きましたが、学生時代にたくさんの映画を教えてくれたACTシネマテークについて、でした。そこまでお世話になったのに、お姉さんの名前を忘れてしまい、失礼極まりない男であります。今頃、どこでどうしているのかな。

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