自故日記(24)
事故にあって3ヶ月が経とうとしている。
まだ歩けない。
怪我や大きな病気をすると人間はとてつもなく大きな不安に襲われると思う。
しかし、その不安というのは「先がわからないから不安」なのか、「先がわかるから不安」なのだろうか。
先がわからないことは僕は不安なのではなくて、興味ややる気を生み出すものではないかと思っている。チャレンジ精神を生み出す。
わからないということは変えられる可能性が大いにある。
しかし、実際に大きな怪我をして自分の体の感覚とかは自分が一番によく感じている。
今後どんなふうになっていくのかという自分の予想ができてしまうから(それが正しいかはわからない)、より不安を"描ける"のだと思う。その予想とやらは正確なわけではないからこそ、医療に託すわけだ。
不安は襲ってくるものではなくて、自分で作り上げているものだと思った。
不安だといっても、それを解消すべく取り組んでいるときはどこか心が楽ではないだろうか。
例えば体力に不安があって、ランニングのトレーニングをしているときなんかは充実感を得たりするだろう。
今僕が不安なのは、不安に対して自分ができるアプローチが少な過ぎるからだと思う。
これをした方が良いというよりは、どちらかというとこれをしない方が良いという禁止が多い。
一つは荷重だ。
完全免荷と言って、一切自分の怪我した足に体重をかけないという時間を2ヶ月以上過ごした。
再び足を地面につくときの不安や恐怖心は計り知れなかった。
「〜するな」というのはあまり心に良くないんだなと改めて感じた。
再びサッカーに戻りたい。ボールを蹴って、走り回りたい。
そんな気持ちと、今の自分が自分の体から感じている情報というのが大きくかけ離れている。
それからはとてつとない悲しみを与えられている。
そして、いまは歩けないというさらに厳しい状況にいる。
そして、ひとりでの異国だ。
これまで、サッカーの楽しみや情熱がそうした不安なども払拭してくれていたのだろう。