自故日記(22)
事故に遭って、脛骨と腓骨を骨折して2ヶ月半が過ぎて、いまだ松葉杖なしには歩くことができません。
サッカーができないという苦しみを強く感じています。
そんな僕は自分の人生を振り返ってみると、サッカーに情熱を持ち、熱狂し、自分の人生の中心にいつもあったものだと思います。
サッカーは僕の人生の柱であると言っていいと思う。
その柱があるからこそいろんなものに興味を持てた。ピアノやバスケットボール、バレーボールや野球など本当に多くのものを習った。
最終的にサッカーを選んだ。
でも、どんなものを始めるにしてもサッカーが中心にあって
例えば、野球であれば走力や忍耐力をつけたい…。
ピアノはサッカーでのリズム感につながる気がする
バスケットボールはサッカーのように激しく動くし、要所要所の戦術や動き方は似ている。
バレーボールはジャンプ力向上などすべてはサッカーが中心にあって、そのために取り組んでいたと思う。
そんな僕が今思うのは、一つの大きな柱を持つこともとても素晴らしいことであるけれど、
より多くの柱で自分の人生を支えるべきだと思っている。
今までの自分はそのサッカーという柱が大き過ぎて、それがなくなってしまう恐怖感や、それがないことによる不安定感に襲われている。
逆の話をすれば、手を骨折してピアノができなくなっていても僕はそんなに落ち込まなかったかもしれない。
いろんなものに興味を持ち、いろんなものに取り組んでみる。それが僕はとても大切だと思う。
だから、僕は怪我をした後に子供達のサッカーについての相談をされると、
「サッカーのために、サッカー以外のたくさんのことに取り組んでみてね」
と言うようになりました。
もし仮に怪我をしてしまった時にはそれが気持ちを楽にしてくれると思うし、
前述したようにサッカーでは学べないものを学ぶこともできる。
一つが崩れてしまっても、同じように支えることのできる柱が何本もあれば崩れない。
以前、ドイツ人の友人ににぜドイツはサッカーが強いのか?と聞いたことがある。
そうすると彼はこう答えた。
「ドイツでは、サッカーだけではないからね。日中にビールを飲んだり、友達と楽しんだりして、夕方になればサッカーの練習に行くこともある。」
今はこの意味がとてもわかる。
サッカーだけじゃないから、サッカーも社会の中に巻き込まれて必要とされる。
社会の中の一部であるからこそだ。
サッカーだけを切り取った成長は難しいと思う。
ある日突然、限界を迎えてしまうだろう。
個人レベルでもそうだと思う。
とにかく、いろんなものに触れるべきだと思う。