
やめる大切さ
現代社会、特に日本ではやりたいことをやることに対して批判的な考え方があるように感じる。
それは戦後以降、日本は復活するために我慢・忍耐強さというのを必要とされてきたからかもしれない。
しかし、当たり前のように時代も変わっている。
だからこそ、「そうあるべき」という考え自体を疑う必要があるのではないだろうか。
言葉というのは人を作る。
「そうあるべき」という根拠のない決まり文句が人を形成し、行動を制限している。
スキルは必ずコモディティ化(一般化)するものであり、ゆくゆく陳腐化してしまう。そうなると最も大切なのは「センス」だと思う。
センスというのは自らやりたいという自発的な行動によって生じるものだ。
そこに新型コロナウィルスによるパンデミックが発生した。これはこれまでの常識が根本的に通用しなくなるというきっかけであったと思うんだ。
そして人々は皆一様に物事の当たり前を疑い始めた。
ビットコインなどの暗号資産が生まれたのも、そもそも国や社会に対する信頼が揺らぎ始めている証拠だと僕は思った。
これまで社会によって正解とされてきたものが揺らいでいる。これからの時代は正解が何かわからない中で試行錯誤していかなければならない。
そうであれば、人に敷かれたレールを苦しみながら走るよりかは、自分の目指すゴールに向かって、自分の意志で一歩一歩を踏み締めていく方が良いとは思わないだろうか。
もっと自己中に生きることがこれからの社会には必要だと思う。ただ、この自己中というのは他人なんか関係ないということではなくて、それぞれが自分の意志を持って行動し、他人の意思も尊重し合うということだ。
いわばお互いの意思を尊重しあい、守っていくということがこれからの自己中の形だと思う。
そのためには、そこに費やす時間を作る必要がある。
ではどうやってその時間を作り上げるのかというと、1日の時間を増やすことなんてできない。
24時間のところを僕には26時間与えてもらうことなんていうのはできない。
平等に与えられた時間の中で、より有効活用するために「やめる選択」を積極的にしていく必要がある。
自分の得意なことに時間を割けるようにするためには、自分が苦手なことやできないことは、それができる人に任せるということが重要だ。
組織であればこれは成長するためにも重要な考えだと思う。
事実、僕自身もサッカーのプレー中にあれもこれもやろうとしていたときよりも「自分はこれだけは負けない」という一つのことに全力を注げるようにした方が周囲からの評価も高くなった。
しかし、少しそれが遅かったなと思う。
日本では全てを平均的にできることこそ素晴らしいとされてきた。
もちろん素晴らしいのだけれど、海外に出て強く思ったのは結局、「自分にできて他人にできないこと」こそ必要とされるということだ。
将棋でいえば歩よりも桂馬や飛車、角の方が貴重な存在だ。
そうなるためには短時間でフレキシブルに判断していく必要がある。
・やらないことを決める
・不得意なことを人に任せる
これが勝つために必要なことだ。人との違いを作るためには自分の得意にいち早く気づき、できないことを認めることだ。
できないことを見つけることはネガティブなことなんかじゃない。むしろポジティブだと思う。そうやって取捨選択して、人に任せていく中で自分にしかできないことが磨き上げられていく。
深く覆いかぶさった皮が剥がされていくように。
自分がやりたいことをやるために、やらない選択を積極的にしていくことをお勧めしたい。もしかすると、それは誰かが輝ける材料でもあるかもしれない。