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たった4文字で片付けられた価値

新型コロナウィルスによるさまざまな影響は世界各地でまだまだ残っている。
変異株の発見も続き、そもそも終わりなんてないのではないかと思うくらいだ。

僕はその中で、不要不急とされたスポーツの分野で働いている。
サッカー選手として、サッカーができない時間というのはものすごく苦しいものだ。

自分がこれまで人生で最も価値があると思っていたことが、
「不要不急」というたった4文字で片付けられてしまった。

僕が価値があると思っていたものには実は価値がないのだろうか。

子供の頃、毎朝6時になるとジョギングに出かける柏レイソルの選手に憧れを抱いた。

「かっこいいな。」

それが僕がサッカーを始めた理由だ。あの時のお兄さんがサッカーをしていなかったら僕は海外にもいないだろう。

人生において一瞬の何気ないきっかけというのが大きく進路を変える。

僕はその不要不急の中で改めてサッカーと向き合った。

そして、とても悔しかった。

自分が何より大切に、生きがいを感じていたものがある日目に見えない何かによって奪われてしまった。

自分はなぜサッカーをしているのだろうか。

何度も問いかけた。

そこで気がついたのは、サッカーに価値があるかどうかは場所によっても変わるということだ。

大きな声では言えないことではあるけれど、国によっては誰かの命の危険がある中でもスポーツの再開が優先されていたのも事実だろう。

結局は、不要不急という言葉によってあらゆるものの優先順位づけが行われ、それぞれがそれを取捨選択しているんだ。

例えば、日本でも「ちょっと今日は人に会いたくないな・・・」というときに新型コロナウィルスを言い訳として使ったりしている人もいると思う。

出社したくないなという時に在宅ワークができることに幸せを感じたという人も少なくないのではないだろうか。


現在、有難いことにラオスの数チームから来季に対してのオファーをもらっている。

一つは自分を戦力として必要としてくれていて、やる事はプレーをすることだけだ。

そして一つは昨年から行っているクラブ運営も含めて、自分を求めてくれている。

前者の方が自分に対する評価や対価も高いのだけれど、それに対して昔のように即答できなくなっている。

なぜならば、自分がサッカーをすることの意味を考えるようになったからだ。

もっと言えば、自分の人生とはなんなのだろうかと考える。サッカーというツールを通して自分はこの人生で何を表現したいのか?

何を成し遂げたいのか?と考えると、

試合に勝つとか負けるというのは最終ゴールではなくて、それすらも目的を達成するための手段である。

勝ち負けはゴールではないし、目的じゃないんだ。

たったの4文字で片付けられてしまったスポーツの価値というのを今一度考えている。

目に見えない素晴らしい価値を、自分はどう表現していくのだろうか。

先進国と後進国、男性や女性といった違いによる環境格差というのをサッカーというツールを使って解決したい。

そうした環境格差、経済的な格差を無くした時には実は「思考」の違いだけしかなくて、誰にだってチャレンジできる人生というのが待っているのではないか?


僕がサッカーを通してチャレンジしたいゴールというのは、

そうした「誰しもが挑戦できる人生」を表現することなのではないかと思っています。

サッカーというフィルターを通すと、わかりやすいものがとても多いんだ。

社会主義国家では頑張っても未来は変わらないというのを感じる。

生まれた時にもう人生が決まっている。
頑張っても変わらない未来なんだから、頑張らない方が幸せだろう。

だから、身近な幸せを得られるアルコール類は安い。
国としてもそういう不満を解決する安易なものを残しているんだ。

「努力しても無駄だ。ラオスだから無理なんだよ。日本人のお前とは違う。」

そんなことを言われる。
でも、僕はそんなのは違うと思っている。

無理だと思う方が楽だからそうやって選択しているんだ。

可能性はそれぞれに実は平等にある。
だけど、気づかないうちにそれをコントロールしてしまっている。

「思考」が全てだ。

僕はアルゼンチンへも行った。
そこでは「日本人なんかにサッカーできないだろう!」と言われた。

いや、俺にだってできるよ。

同じ境遇に立った時に違うのは、実は「思考」なんだ。

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