DoingからBeingへ|「何をするのか」から「何故するのか」への変化
つい昨日のことだ。
急に連絡をもらって、スペインで活躍している友人とZoomを使って話した。
30分くらいだろうと思った会話は3時間を超えていた。もっと話したかったけれど、また話そうということでその日は区切りをつけた。
それくらい楽しく、かつ学びや発見のある時間だった。
その友人も僕と同じようにサッカーをしている。日本を離れて一人で世界で戦っている姿にいつも刺激をもらっている。
輝かしい実績を持っている友人であり、自分より年は5つ下なのだけれど
たくさんの気づきを与えてくれる存在であり、僕はとても尊敬している。こういう存在は本当にありがたいし貴重だ。
ありがとう!
僕とその友人は、やっていることは同じだ。
だからそこから生まれる悩みや疑問というのは共通項をもって考える事ができるし、理解しやすい。
そして、昨日は「何故サッカーをするのか」という話にもなった。
これは僕自身もこの2年余りでより深く考えるようになった。
2016年にカンボジアの孤児院で子供たちと触れ合った際に、自分の思うサッカー選手という定義を再確認した。
ただサッカーが上手いということだけではなくて、夢や目標を与えてくれた存在がサッカー選手だった。
試合に勝つ事にどれくらいの価値があるだろうか。
もちろん仕事として、
お金を得てプレーをする上で、【勝利】という対価というものを給料を支払ってくれるクラブに対して還元することは重要だと思う。
クラブが収益を得るのは、応援してくれるサポーターさんや企業がいるからだ。
僕の地元には柏レイソルという Jリーグクラブがある。僕はそのクラブに憧れてサッカーを始めたし、いまも熱狂的に応援している。
もちろん試合に勝って欲しい。負けたらものすごく悔しい。何故そんなことを思うんだろうか。
極論を言えば、柏レイソルが試合に負けようが応援することを止めることはない。
自分にとってこのクラブの存在価値が「試合に勝つ」ということだけでは説明しきれない。
夢であり、憧れだった。
試合の日になれば、たくさんの人たちが集まり、選手たちについて語り合ったりする。
子供の頃は、サッカー選手というのはスーパーマンのような存在で、同じ人間だとは思っていなかった。近くで見た筋肉量に度肝を抜かれてしまった。
だけど、今は同じ人間だと理解している。自分自身もサッカー選手をさせてもらっているから当然のことだ。
「あんな風になりたい」と憧れを抱きサッカーに熱中した。
勉強をする理由も、サッカーの時間を確保するためだった。
いま海外に住んでいるのもサッカーを続けるためだ。
そうやって、サッカーがたくさんの感情を与えてくれて、行動をも変容させてくれているんだ。そういうところに価値が隠れていると思う。
改めて自分に問う。
「なぜ自分はサッカーをしているのだろうか。」
子供の頃に憧れを抱いたように、今度は自分自身も自分がサッカーをプレーすることで何かを与えたい。
そして僕の主戦場となる途上国の社会に対しても、何かインパクトを与える活動をしたい。
そんな風に思っている。
自分の頭、そして心の中での順番が切り替わっているのかなと思う。
昔はただ単純にサッカーがしたかった。
サッカーを続けて約30年になろうとする今でさえも、もちろんサッカーをするだけで幸せを感じる。
そして、海外でサッカー選手になった。
柏レイソルに入団するという夢は叶えることはできなかったけれど、彼らの試合を見て、
「観客席じゃなくて、選手となってピッチから大勢の観客に囲まれてみたい!」
そう思って、それを実現するために海外へと渡った。そんな国を選ぶ余裕もなかったからチャンスがあればどこでもと思って渡った。
なんとか辿り着いたネパールという国で、超満員のスタジアムでプレーをする事ができた。試合に入場するときに涙が出た。
全くわからないネパール国歌がスタジアムに鳴り響く。観客が熱唱する。
感情がもうコントロールできないくらいに涙が落ちた。
「何故、サッカーをするのか。」
その答えは応援してくれる観客や、憧れを抱いてくれる子供たちの感情に隠れているのではないかと思う。
そこに自分も価値を感じているし、それが自分がサッカーをする動機になっているんだと思う。
自分にとって、サッカーは自分のうちにある「想い」を具現化するツールなのだと思います。
サッカーをする(Doing)にある、「何故それをするのか(Being)」をより大切にしたい。
それに共感をしてもらえたら、コロナ禍において不要不急という言葉によってその存在価値においてたくさん考えさせられたスポーツや音楽、文化の価値は新たに進化していくのではないかと思います。