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自由?格差?
僕は、誰しもが挑戦することができる社会が実現されることを目指している。
挑戦することができるか否かで、その人生が自分のものなのか、
それとも生まれながらに決定づけられているというような他人の人生を生きる人生に陥ってしまうほどの違いを秘めていると思う。
良い側面で言えば、自分の人生を自分の力で切り拓いていくことで人々を勇気づけ、自分の人生に向き合うことができるのではないだろうか。
自分次第の人生だ。
しかし、それによって生じる問題もあるだろう。
僕が考えたのは「格差」だ。
例えば僕のいるラオスは社会主義国家であって、社会主義というのは平等を目指し、ある程度の平均化された人生が描かれやすくなると思う。
資本主義の矛盾を批判し、社会保障や福祉により平等な社会を目指すためあらゆるものが整備され、規制化されます。
しかしそれによって、貧富の差が激しくなるという結果が隠れている。
社会というのがある程度決定づけられた結果しか生み出さないために、「頑張っても仕方がないよね」というモチベーションの低下が顕著に思考として現れてしまう。
では、自由や規制の緩和によってどんなことが起きてしまうのだろうか。
実は日本では30年前に既にあらゆる規制緩和が行われている。
政府による干渉を最小限にし、民間にできることは民営化させていった小泉政権によるものだ。
発端は1993年の細川政権から始まり、イギリスのサッチャリズムやアメリカのレーガノミクスが参考にされたとされている。
結論から言えば、この2つが招いた結果というのは
貧富の差、ホームレスの増加である。
経済は回復するどころか、国民の貧困は最大化してしまった。
このとき、政策をリードしていたのは竹中平蔵さんで、トリクルダウン”仮説”という経済が成長すればするほど貧しい人たちにもそれが分配されていくという「仮説」をもとに推奨していた。
そもそも仮説というのだからそれがうまく機能しなかったことは明白だ。
1985年には労働者派遣法により、13業種に限り労働力の派遣が可能になったが、2004年にはそれが製造業へまで広がった。
その結果が、非正規雇用の拡大だ。
個人が能力によって働きやすい環境を得た代わりに、大企業は成長するために必要な人材を好きなように獲得し、切り捨てることも容易になった。
日本の名目GDPは1997年には約534億円であったが、小泉政権下の2001年から2006年には510〜520億円に留まっていた。
労働法が改正され、社会保障が削減されたことによって大企業は成長をしやすくなった代わりに、労働する側の格差は拡大された。
実際のデータとして、日本の貧困率は1985年から2016年までに1.5倍へと膨れ上がってしまっている。
新型コロナウィルスによって、あらゆるものが加速していると僕は考えている。
働き方というのも大きく変化しているだろう。
現に副業というものが身近に感じている方も増えていると思う。
つまりは、自己責任を謳う新自由主義がものすごいスピードで加速していっているんだと思う。
それは、ある意味で僕が目指している「誰しもが挑戦することのできる社会」に近いものだと思うけれど、それによって格差が拡大する危険性も感じた。
そうすることによって経済的にも豊かになった人たちがどのような思考を持つかというところまで考えを巡らせなければ、
挑戦することができる社会が、ある意味で弱者の切り捨てにつながり、格差を生むだけになってしまうかもしれない。
チャンスを得て、成功を掴んだものが、今度はギバーとなって再分配していくことが重要だと思った。
日本でも、自己責任を謳った新自由主義の裏には国家主義的統制が行われている。
つまり、自己責任だけど社会は国家が管理しているという壁は崩れない。
だからある意味では日本のようにしっかりしている社会の中では全員がある程度守られた壁の中に留まる事はできるが、
ラオスのような脆い社会では、個人の思考がより重要となるのではないだろうか。
「頑張った奴だけが報われればいいよね」ということで完結するのではなくて、そうした努力によって人生を変えることができるんだということを全体で共有していくべきだと僕は考える。
勇気づけるようなメッセージでありたい。君も一緒に挑戦してみよう、と。
最後に、自由を守るための適切かつ適度な規制は必要であると思う。
規制の緩和が不況の根本的な解決につながるというのは実に短絡的すぎると思う。