最新のiPhoneは買うんだけど|途上国支援の現実
僕はカンボジアで孤児院を訪問した際に「サッカー選手とは何だろうか?」と言う原点に立ち返る疑問を自分に投げかけました。
なぜ自分はサッカー選手を目指したのか。
それは、サッカー選手に憧れを抱き、夢を与えてもらったからでした。
だからサッカーを通して、何か社会に還元できないかと考えて日本の利活用にもつながる物資支援というのを6年間継続しています。
協力してくださる方々には本当に感謝です。
そんな活動をしていると、
「俺にも靴をくれ。俺のサイズは◯◯だ!」
というメッセージが世界中から届きます。自分の身近なところからも届くので、心が痛むこともあります。
僕は物資を届けるけれど、本当に届けているのは「想い」であるべきだと思っています。
だから、なぜそれを届けるのか、物資を提供してくださる方々にもどういう想いを持っているのかをヒアリングして、その形に沿って届けるようにしています。
現地にいる人間として感じるのは、現実とのギャップです。
そして、支援というのが
先進国は支援するのが当たり前であって、途上国は支援を受けるのが当たり前なんだというような理解し難い考えが埋め込まれてしまっていると感じています。
ボロボロの靴を持った写真が送られてくる。
だけど、その写真の画質はかなりの高画質だ。
最新の携帯電話は購入できるけれど、靴は買えないのか。
そうじゃないと思うんです。
最新の携帯電話は必要だから購入するけれど、靴は別にあればいいから買わない。
これが正解だと思う。
もちろん経済格差、環境格差による問題はスポーツにもある。
だけど、本当に必要としているのであれば自分で買うかもしれない。
それよりも高額となる最新の携帯電話よりも先に。
要は単純に優先順位があるんだと思う。
この場合で言えば、
この構図がある。
もちろん日本などの先進国では、より経済的には豊かであると思うので選択の幅は違う。
必死に環境にも負けずに努力をしている選手たちに、目標を見失わないように背中を押してあげるような支援が本来の形であり、必要なものであって
「支援したシューズでさらに努力を積み重ねた結果、サッカー選手となって稼ぎ、携帯電話を購入する事ができた」
こういう風になるといいなと思う。
「俺にもくれ」
というようなメッセージを送ってくる人たちの多くからは、その必要性や重要性が低く設定されていると感じさせられる事が多い。
今回、アフリカとカンボジアへも物資を送っているのだけれど、輸送費に関してはチームに負担するようにお願いをした。
僕の手の届くところは自分も支出をして支援を続けているけれど、
それが世界中に広がった時には、それを支える人自体も増えるべきだと思うし、
それが持続性を生み出す一つの手段となると思っている。
僕のいるラオスのクラブへも話をした。
「シューズに関して支援ができるけれど、輸送費に関しては協力して欲しい。」
しかし、実際に輸送費を協力してくれて支援を望んだクラブは1つだけだった。
タダなら欲しいのか、本当に必要なのか。
ここの見極めはしっかりしないと、支援のようで支援ではないのかもしれないと思っている。
目標を持ち、努力をすることで違った景色を見ることができる。
これはスポーツの魅力だと思う。
途上国の社会は、なかなか努力をしても変わらない問い現実を突きつけられることがある。
スポーツで実現できたことが経験となり、それが社会に出ても応用できると
スポーツが人材育成、教育としてとても優れたツールとなるのではないかと思っています。