6 空の鼓動
私はよく死んだ父の夢を見る。彼はいつも優しい笑顔で、見つめてくる。そこに言葉はない。ただ初めから永遠にそこにいるみたいに、しっくりとくるポジションを外さない位置から、私を見守るように。
どちらかといえば、お父さん子だったと、つつじ恵は思う。大きな肩に乗せられて、肩車をされながら見る景色は、いつもと全然違っていた。頭がくらくらしそうなくらい高いところにいるような錯覚。それでも父の頭を抱えながら歩く並木道は、秋の気配を感じる薄赤い葉っぱと、安心感で溢れていた。幼い頃の記憶は、本当に年月とともに消えていきそうで、たまに怖くなる。だけど、幸せの欠片は、ちゃんと私の中にあって、今の自分を支える柱みたいに作用する。
癌が発覚してからは、とてもあっけなかった。彼は、ベッドの上でどんどん痩せこけていき、元気だったころの面影を失っていった。高校生になったばかりの私は、最期は近いのだと、しっかり悟っていた。反抗期になっている時間もなく、残されたときを後悔のないように、丁寧に日々を送ると決める。
愛を伝えるなんていう言い方は、格好が良すぎる。衰弱していく彼の手を握って、まだ残っている温かみを漏らさないように、ただ涙をこらえる。面会を終えた病院からの帰り道は、優しい空気で満たされていた。今が鮮明に映し出されて、次々に進んでいく季節とは反対に、私の心は、ゆっくりと立ち止まったまま、悲しみを覆い隠すように、広い空に溶けていく。
空は、いつも偉大だ。この先は、宇宙とつながっているからだ。無限をこの手に掴むことができる。私は、その鼓動を聞くことができる。心臓がなるトクトクという音みたいじゃない。リスが歩くトコトコという振動でもない。それは、砂地にくっきりと円を描くように、たしかに鳴る波形みたいに、世界に浸透していく。
風に流される雲が動くとき、あるいは、人が命を全うし終えるとき、鼓動は大きくなる。けれどリズムは崩さない。淡々と刻んでいくビートがピークを迎えたとき、私は、ここに居ることを思い出す。ふわふわとした存在が、色の濃い鉛筆で描かれた線みたいに明るみにでる。これからも自分を見失わず生きていけると感じたとき、私は父を思い出すのだ。
料理をすることは、最もクリエイティブな行為のひとつだと私は思っている。それぞれの動作は、派手ではない。野菜を切る。塩を振る。肉をフライパンで炒める。魚を鍋で煮る。お皿に盛り付ける。全ての工程が点になって連なり、一直線の道になる瞬間は、言葉にし難い気高さがある。女が料理について語っても、それは所詮、主婦の炊事だと言われる現状がもどかしい。女性は家庭にはいり、男性は社会に出る。それはもうなんだか昔のおとぎ話みたいに聞こえる。それでも、やはり私たちは性別の枠組みから抜け出せず、歯がゆい思いをしている。こなさなければならない役割を押し付けられ、それを拒むと変人扱いされる。
「私は私のしたいように生きる」
いつか母に、そう言った覚えがある。たしか夏が少し遠のき始め、暑さは徐々に和らいでいく夕暮れ時、空はオレンジ色だった。彼女は、台所に立ち晩御飯の支度をしていた。高校受験を控えた私は、中学生にとっては、ありきたりな将来への不安で押しつぶされそうだった。その抑圧から逃げるために、そんな言葉を口にしたのかもしれない。
男になりたかったわけでもない。彼らは彼らなりに、生きづらそうにしていた。自分の居場所だったり、社会における立ち位置だったり、私たちが欲しくてしょうがないものを、いとも簡単に手に入れてしまうことには、腹を立てたけれど。少なからず、そこに甘んじず、世の中の当たり前を疑い、もがき苦しみながら人生を歩む人間は、地に足をつけているように私には思えた。
はじめからその場の構成員のように扱われる気持ちを想像しても、イメージが浮かばない。女たちは、そこに違和感なく存在するために、どれだけの気苦労や努力をしていると思っているのか。そこを評価しない世界に絶望する私は、まだ青臭い。常に答えを求められている気がする。どうせ女には、責任なんてないし、その意味すら分からないと罵る男には、嫌悪感すらある。
樋口ゆうとを一目見た時、私は死んだ父を思い浮かべた。誠実であることや、優しさや、勇気の価値を低く見積もる人ばかりの世の中だ。権力を持っている者は尊ばれ、たとえ暴力的であっても、自分の優越感を高める言葉だけが持て囃される。世間は、中身のない議論で、右に左に揺れ動いている。ただ、疲れているだけなのかもしれない。だけど、私には、世界は本当にくだらなさを増幅していき、終いには、知性のかけらもない愚か者だけが生き残るんじゃないかと思える。そんな荒んだ心を、彼は受け止めてくれるような気がした。
恋愛にあまり興味はなかった。それがないと生きれないわけじゃなかったし。人を愛することに向き合う気力もない。みんなが彼氏を作るから、私もという気分にもなれない。誰かを好きになるのは素敵だと思う。そして、その人が自分に好意を抱いてくれたなら、なんて淡い期待に縋るのも、しんどかった。それでも、彼と話してみて、なにか大きなものに包まれているような心地になった。それを求めていたんだと思う。だだっ広い砂地の渇きを潤す水分が、行き場を探すようにゆっくり吸収されていく速度と同じくらいに。
今日、二人で会うことなっている。私は、飾り気のない服装に身を包み、とても小さな宝石のついたネックレスをする。父がまだ元気だった時に、奮発して買ってくれた誕生日プレゼントは、今もなお、あのころと変わらず、煌びやかに発光している。この世界は、無常だ。きっとこの石ころもやがて、錆びて輝きを失い、灰になって風にそよぐのだ。まるで、私と父が初めから、存在しないかのように装う時間は、本当に残酷だと思う。なにもかもが消えていくのなら、いったい何に救いを求めればいいんだろう。救済なんて望んでいないと強がることでしか、凌げない日常は儚い。それでも、私はなお生きる。
待ち合わせの場所に、彼はもう着いていた。カジュアルな格好に、大きな背丈が馴染んでいる。清潔感がある白の無地のTシャツは、少し汗ばんでいて、まだ夏なんだということを思い起こさせる。季節なんてものは、どうでもいい。彼と一緒に過ごす時間が特別であれば。どうして、こんなにも気分が清々しいんだろう。少しの緊張と、未知の楽しみへの期待が、行ったり来たりしている。
「きれいなネックレスだね」
「父の形見なの。これをつけていれば、守られている気がする。気持ちの問題」
2人で歩幅を合わせて歩く街は、一段と綺麗に見えた。コンクリートのビルに囲まれて、風だけが自由に移動している。すれ違う人々は、せかせかと目的地に向かう。いつもは味気ないと思っていた風景を横目に、私は彼を見る。たわいもない会話は、途切れない。多少のぎこちなさはある。ふとした瞬間に彼が私の手を握った。驚くとともに、すんなりと受け入れている自分がそこに居た。大きな掌の温かみが伝わる。
セックスの知識が、皆無なわけではない。いつかは、経験としてやってくることは、分かっている。それが、誰となのか。いつなのか。それが全く予想できてない私は、幼いのだと思う。初潮が来たときの不思議な感覚を説明しようとしても、言葉にできない。その時の周りの男子はまだ、子ども子どもしていた。大人になる身体のことになんて、たぶん想像できてないだろうし、きっと我の身体に対しての解析度も低いままだと私は、理解している。男が、どのように性を自覚していくのかは、知らない。いつかは、誰かを傷つけてしまったり、泣かせたりするかもしれないのを、ぼけっと通過していくのは、罪深いことでもあるのだ。
映画を観終わって、その日は解散した。彼は終始、優しく気遣いしてくれた。それがとても嬉しかったし、父の存在を思い出す瞬間もたくさんあった。これから関係をしていく覚悟のようなものと、信頼できる安心感を覚えた私は、鼻歌を口ずさむような気分だった。この先の幸せが少し怖いくらいに。