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【連載小説】稟議は匝る 8-3 室蘭 2006年11月14日
すると暗闇の奥の方から、
「今、電気をつけるから、いいからそこに座れ」
と飯田老人の声がした。
山本が手作りらしきテーブルの前におかれている椅子に手探りでおそるおそる座ったところで、丸太小屋の高い天井から吊り下げられている蛍光灯の電気がついた。
暗闇に慣れた山本の目には、蛍光灯も眩まぶしく感じられ、しばらくぼんやりとしか見えていなかった室内が、はっきり見えるようになると山本は異様な光景を目にしてすくみ上った。
なんと壁一面に斧やらののこぎりなどが並べられているのだ。
山本は思わず腰を下ろした椅子から立ち上がりかけた。
その様子を察してか、老人は、
「立派な斧だろう、この辺は、熊なんかも出るから、外に出る時は、必ず斧を片手に持ち歩いているんだ。スーツに革靴でここに来るのは、お前ぐらいだ」
とせせら笑うように言った。
「で、部屋に入れたぞ、話とはなんだ」
促され山本も覚悟を決めた。
「本日は、公庫受託資金の連帯保証債務の弁済について相談しに来ました」
何とか落ち着いた声を絞り出す。
椅子に腰かけた老人は、背筋をピンと伸ばし、正対して、山本をまっすぐな目で見つめて話し出した。
「会社は10年以上前に自己破産した。俺は経営を続けるつもりだったのに、かってに自己破産させられた。前の女房は出ていくし、子供はいじめを苦にして、自殺した。これ以上、俺から何を奪う。身ぐるみでも剥ぐつもりか」
決して大声ではないが、飯田の言葉には力がこもっている。
辛酸をなめつくした男ん言葉に山本は顔を伏せた。
「それは、知らぬこととはいえ、大変失礼しました。ただ当行としては、社長の身ぐるみを剥ぐつもりなどなく」
山本の説明を遮さえぎり、老人は、大きな手作りの木のテーブルを両手で叩きながら叫んだ
「俺は失うものなんて、ないんだ」
白髪の老人は姿勢を崩さない。
不意に戸外から、山鳥の鳴き声が聞こえてきて、山本はここが山の中なのだと改めて気づいた。
山本は言葉を失い、ふたりの間には沈黙のみが横たわった。
山本には長く感じられたが、その実、数十秒のことだったかもしれない。何とか情況を変えようと山本は声を絞り出す。
「社長、私みたいな若造が申しあげるのも僭越ですが、大変ご苦労されたのは、」
「おまえは俺が怖くないのか。水産会社の元社長で、殺人未遂で服役し、出てきたのもつい数年前だ。山奥の丸太小屋に連れてこられて、大丈夫か。ここで殺されて、山に埋めたとして、誰かに探して見つけてもらえるのか」
殺されるという言葉に山本はおののいた。寒さと外の暗さでなおさらだ。
保担価格ゼロの、朱書き案件あんけん、1円の価値もない債権回収で、回収できないという記録を書くだけのどうでもいい仕事。生真面目に全件廻っているのは山本ぐらいだろう。ただの自己満足か、馬鹿なのか。
ふと実家の母親の顔を思いだした。
「それじゃ世の中うまくいかないんだ」と何かをさとされた瞬間だ。
こんなところで死んだとして、男子の本懐と言えるのか。
いやいや、そんなことを計算して生きていてはいけないと、山本は考えることをやめた。白髪の老人に気合負けしないように、飯田老人に正対し、背筋を伸ばしてゆっくり話し出す。
「社長、そういうお話はすべきでないと思います。会社はなくなりましたが、一国一城の主、果たすべき責任は、一般の方よりも重いということだと思います」
飯田老人はじっと、山本を見ているが、睨んでいるという感じでもない。
山本は微妙な雰囲気の変化に力を得て、毅然として話を続ける。
「会社は自己破産されているので、会社向け債権は貸し倒れで処理済みです。しかし、社長の個人保証は、社長が破産されていないので、債務はそのまま残っている状態です」
老人は少し気が緩んだのか、姿勢がやや前のめりになった。山本に対する心理的な拒否感が薄らいだ証拠だ。
「会社も、破産するつもりはなかった、服役中に顧問弁護士が勝手に破産させやがったんだ。」
頑なだった飯田老人の内心の吐露に山本も彼の無念を感じた。
「およそ20億円の債務ですから、差し出がましいと思いますが、自己破産は検討されませんか」
よりそうような山本の言葉に老人は心許したようだった。
「破産はしない、俺は責任から逃げることはしたくない。20億円、当然生きているうちに返せないが、少しずつでも返済しよう」
わずかに笑みさえ見せる老人に山本は心の底から安堵した。
「それはありがとうございます」
「しかし、あの家は、本当に、女房のものなんだ。女房は会社がつぶれた時の経理担当で、俺が服役中も、本当によくしてくれた。服役中に、女房の両親がなくなり、あの家はあいつが親から相続で受け取ったもの。その後、俺が出所した後に結婚したから、本当に俺のものじゃない」
朴訥な言葉に嘘は感じられない。
「わかりました。社長のお話を信じます」
山本の言に飯田老人も頷く。
「できる限りと言っても、年金暮らしで実際は、女房のパートで食わしてもらっているのが実態だ。返済できるのも限られている。とりあえず、毎月5万円ずつ返済させてもらい、年度末の余剰分は、またその時追加で支払うというのでどうだ」
「わかりました。それでよろしくお願いします」
そのあとは、何かつきものが取れたように、社長は饒舌だった。
殺人未遂は、逃げた経理部長とスナックでばったり会って、階段から突き落としたといわれているが、全くの冤罪えんざいだというもの、今の妻とは、毎日一緒にお風呂に入っていることなど、居酒屋に来ているような雰囲気だった。
一緒にお風呂の下りで、飯田老人の奥様とみられる女性がお盆に茶碗と急須をもって入ってきた。ふくよかでちゃんちゃんこを着ており、よいしょと老人の隣に座った。最初の頃とは見違えたように、飯田老人はデレデレした笑顔になった。ふくよかな女性はポットから急須にお湯を注ぎ、山本に茶碗を差し出す。その女性は、何やら、中国の高いお茶だと説明をするが、急須から紫のお茶が出てきた時、山本は息をのんだ。
「殺すつもりはないから、安心して飲め」
飯田老人は笑顔ですすめる。山本もここで飲まないわけにはいかないと笑顔で飲み干した。
毒は呑んだことはないが、きっと毒もこんな味だろう。
いろいろ考えても、もはや遅い、ただただ苦いと顔をしかめているこちらの顔を見て、白髪の老人とその奥方は大笑いをしている。
たわいのない世間話をし、しばらくして、山本はその場を辞した。
真っ暗で静寂な山の中、土の上を歩く靴の音がかなり大きく聞こえる。山本がレンタカーに乗るとき、どこからともなく、フクロウの鳴き声が聞こえていた。
すっかり夜は更けていたが、山本の気分はとても晴れやかだった。